エコファシズムという言葉を使うかどうかは問題があるんですけど、ただ、言えるのは、例えばトップダウンである程度解決した方がいいんじゃないかと、今の質問は受け取ることができるんですが、それは地域的にはそういう体制になってもいいんじゃないかというような意味だと思うんですけど、ただその時に、誰が決めるのかという問題があって、一つは、丸山先生が言われたように、どちらかというと社会的に優位な人たちの、社会的な排除とか基準で決められる。と言った時に、現実に社会的弱者のいろんな配慮というものがかなり欠けているのではないかということです。
それから私がいつも問題にするのはですね、温暖化とかそういう問題ではないんですけども、例えば野生動物のいろんな利用を考えた時に、一般的には野生動物の絶滅の危機というものがあります。これはまあ、どうしても絶滅の危機を脱するためには一切の利用を排しするということが妥当であるということになると思うんですが、そうをすることによって、細々ではあるけども、ある地域で野生動物を利用していた人々はどうなるでしょうか。最近ジュゴンの話題が、沖縄の東海岸の、この間は西海岸にも出現しましたけども、話題になっているんですが、オーストラリアから沖縄にかけて生息していて、往復したりしているわけですね。アボリジニの人がジュゴンの漁をして、それはアボリジニの文化的な価値ということで一定の意味がある。そうすると、オーストラリアの海域のジュゴンを保護するということで、一切の漁を禁止するということは、一体いいのかということです。
数から見ますと、そうしたほうが効率はいいわけですね。効果的に絶滅の危機は避けられるわけですけども、アボリジニのような利用をしている人たちが、無茶な漁をしているから減ってきたのではないわけです。そういう問題も一方ではあるわけで、そういう規制を一律な価値によって行うということは、いろんな問題も起こるだろうと。その時に、彼らに権利があるから取っていいという合意形成になるかどうかは別だと思うんですけど、少なくとも、そういう政策決定をする際に、そういう人たちが何らかの権利を主張したり、あるいは、意見に参加するように工夫しないといけない。
「そんなことをやっていたら、結局ジュゴンは絶滅してしまうではないか、緊急避難も必要だ」という議論もあるかもしれませんが、そうなってくると、どちらをとるかという判断になると思います。これは、人によって価値観も違うものです。私の場合は、そのどちらをとるかというと、アボリジニのの人たちの権利をそれなりに尊重するという方に、傾くかなあと思います。ただ、アボリジニの人たちも、絶滅してしまっては、文化的な意味もなくなってしまうわけですから、合意形成を考えなければならないことは事実だと思いますし、仮に、全面的に漁が禁止になるわけじゃなくて、部分的にもどれくらいの頭数を取っていいかという実際には頭数制限と言う形になるのが妥当じゃないかと思うんですけどもね。
今言ったように、環境的正義とエコファシズムを絡めて言うと、少なくとも一律的な価値で何かトップダウンでやるということに関しては、色々問題があると思います。
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