環境の世紀VII  [HOME] > [講義録] > 7/14 「最終回ディスカッション」(討議:学生の質問2)

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最終回ディスカッション7月14日
司会:丸山真人教官紹介
パネリスト:鬼頭秀一講義録教官紹介
後藤則行講義録教官紹介
■ 丸山 :

 他のみなさんもいろいろと思いついた質問とか問題とかあると思うんで、今の問題をそのまま続けてもいいんですが、少し違った論点視点もこの際出してほしいと思います。手を挙げてどうぞ。

■ 学生2 :

学生2による質問 さっきのお話で、エコファシズムはいけないという視点があったと思うんですけど、ファシズムという言葉がついているから暗黙のうちにいけないとされている気がするんです。環境の価値観が広がるタイミングというのと、環境問題が発展する段階というのは実は違うんじゃないかなと思ったんです。

 環境という権利の認識が出てきたのは、論点2番で環境的正義は社会に受け入れられるのでしょうかと書いてあるんですけど、人類の歴史から見ていると、個人の生命とか、政治的なこととか、経済的な豊かさというものが満たされた次の段階として、環境というのが出てきたというレベルの話で、だから日本では環境が大きなテーマになってきたと思うんです。中西先生はフィリピンなどでは、環境問題ではなくて、貧困の問題だとおっしゃっていたと思うんですよ。

 環境問題は今の問題だけでなく、50年後の持続性ということも問題として見なければならないと思うんですが、民主主義の過程を通してだと、50年後の社会とか国際的な問題は反映されづらいのかなというのがあって。特に、ある種のトップダウンがなぜいけないのか、エコファシズムという言葉は悪いと思うんですが、人を殺してはいけないとかそれと同じようなレベルの話なのではないかなと思うのですが。

 質問の一つ目としては、環境というものが価値観として認められるのと、問題の大きさというものが実は違っていたときに、なぜエコファシズムがいけないのかというそういう質問です。




■ 丸山 :

 ちょっと一言エコファシズムという言葉を僕がここに書いたのでね、僕なりの見解を明らかにしておきたいと思うんですが、僕はやはり中西先生の講義を聞いてこういう発想をしているんですね。

 つまり、ある環境が非常に悪化している時に、それをきれいにしたい。例えばディーゼルで大気が汚染されているからディーゼルを都心から排除したいというような政策決定がなされたとしますね。そこで、排除しようという時に、誰に一番しわ寄せがくるかというと、零細企業の経営者であったりするわけですよ。それで、トップの企業であれば、ガソリン車に変えるとかいう資本調達はそんなに苦しくないけれども、個人経営の会社ではトラック1台買い替えるのも大変なことです。だけど、買い替えなければ罰則があって、それを守らなければ牢屋に入るという可能性も出てくるわけです。それを元に、フィリピンの場合も、ある環境基準を上からがっと決めて、下に1週間以内にそれを守れと、で守れない人はこの土地から排除しますと。

 そういうことになると、結局貧しいもの、弱いものに一番しわ寄せが来るという問題があって、それを僕はエコファシズムの限界というふうに言っているわけです。それが、トップダウンの限界じゃないかと考えているわけです。




■ 鬼頭 :

 エコファシズムという言葉を使うかどうかは問題があるんですけど、ただ、言えるのは、例えばトップダウンである程度解決した方がいいんじゃないかと、今の質問は受け取ることができるんですが、それは地域的にはそういう体制になってもいいんじゃないかというような意味だと思うんですけど、ただその時に、誰が決めるのかという問題があって、一つは、丸山先生が言われたように、どちらかというと社会的に優位な人たちの、社会的な排除とか基準で決められる。と言った時に、現実に社会的弱者のいろんな配慮というものがかなり欠けているのではないかということです。

 それから私がいつも問題にするのはですね、温暖化とかそういう問題ではないんですけども、例えば野生動物のいろんな利用を考えた時に、一般的には野生動物の絶滅の危機というものがあります。これはまあ、どうしても絶滅の危機を脱するためには一切の利用を排しするということが妥当であるということになると思うんですが、そうをすることによって、細々ではあるけども、ある地域で野生動物を利用していた人々はどうなるでしょうか。最近ジュゴンの話題が、沖縄の東海岸の、この間は西海岸にも出現しましたけども、話題になっているんですが、オーストラリアから沖縄にかけて生息していて、往復したりしているわけですね。アボリジニの人がジュゴンの漁をして、それはアボリジニの文化的な価値ということで一定の意味がある。そうすると、オーストラリアの海域のジュゴンを保護するということで、一切の漁を禁止するということは、一体いいのかということです。

 数から見ますと、そうしたほうが効率はいいわけですね。効果的に絶滅の危機は避けられるわけですけども、アボリジニのような利用をしている人たちが、無茶な漁をしているから減ってきたのではないわけです。そういう問題も一方ではあるわけで、そういう規制を一律な価値によって行うということは、いろんな問題も起こるだろうと。その時に、彼らに権利があるから取っていいという合意形成になるかどうかは別だと思うんですけど、少なくとも、そういう政策決定をする際に、そういう人たちが何らかの権利を主張したり、あるいは、意見に参加するように工夫しないといけない

 「そんなことをやっていたら、結局ジュゴンは絶滅してしまうではないか、緊急避難も必要だ」という議論もあるかもしれませんが、そうなってくると、どちらをとるかという判断になると思います。これは、人によって価値観も違うものです。私の場合は、そのどちらをとるかというと、アボリジニのの人たちの権利をそれなりに尊重するという方に、傾くかなあと思います。ただ、アボリジニの人たちも、絶滅してしまっては、文化的な意味もなくなってしまうわけですから、合意形成を考えなければならないことは事実だと思いますし、仮に、全面的に漁が禁止になるわけじゃなくて、部分的にもどれくらいの頭数を取っていいかという実際には頭数制限と言う形になるのが妥当じゃないかと思うんですけどもね。

 今言ったように、環境的正義とエコファシズムを絡めて言うと、少なくとも一律的な価値で何かトップダウンでやるということに関しては、色々問題があると思います




■ 後藤 :

 エコファシズムについて私はよく知りませんが、ま意味はわかりますがね。こういうものも文脈とかかわりがあると思うんですね。ファシズムというのは我々はつらい経験を持っていますので、これ自体悪いということになりますし、我々環境の先生ですので、どうしても、そういう価値観が入っちゃうわけですよね。で逆にこういうものも、我々は色々なシステムを考えますが、理想的なものはないという基本認識が重要だと思うんですね。

 今日の社会は民主主義というものを採用しているわけですね。しかし、民主主義がいいとはほとんどの人は言っていないわけです。おそらく日本人だと、水戸黄門が首相になった方がよっぽどいい社会ができそうな気がすると思うんですね(笑)。民主主義というのはそういう欠陥をもった社会。だけど我々は受け入れている、だから、マイナスの面も同時に受け入れる必要があると思うんです。

 民主主義というのはオブラートで包んだ言い方をしますが、エッセンスだけ取り出しますと、多数決なんですね。多数決で物事を決める。そこでもしエコファシズムが生まれてきても、正当な我々の政策の取り方なんですね。そういうのを間違っていると考えるならば、我々の持っている民主主義の社会のシステムというものを通してそういうものを実現して行く。例えば、やはりドイツの緑の政党のように、政治システムの中に、大きな政治的なパワーが生まれてくる。そういう形で、行きすぎと言いますか、マイノリティに対する虐待というのを防いでいく。こういう民主主義の負の部分を考えながら議論して行くことが重要じゃないかなと思います



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