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最終回ディスカッション



目次
自己紹介・環境三四郎によるイントロダクション
論点1:被害者は弱者
論点2:欲望の追及
論点3:データの不十分性
総合ディスカッション

丸山真人佐藤仁小田盛川

データの不十分性

Question

 ■問題提起(命題提示)
 環境問題を難しくしている大きな原因の一つとして、「データの不十分性を盾に、何もしない行政」(松原先生)の姿勢も、うかがえます。データが不十分な状況は、大変よく起こることらしいです。この点には、6月8日に講義していただいた、統計学の松原先生をはじめ多くの先生が触れていました.
 松原先生は、行政の意思決定という視点から水俣病を事例に講義なさいました。
 「データがなくても、どのような論争が起こっているかを見て、時期をうっせず解決策を示さなければならない」

 佐藤仁先生は、「データが足りない、それだけでなく、データが故意に隠されていることはよくある」と指摘してくださいました。
 「水銀を調べてみると、魚、ヘドロ、人の髪の毛、死亡者の臓器の中からも大量の有機水銀が発見された。しかし、厚生省は"海の魚が全部有毒化した証拠がない"として食品衛生法を適応しなかった」その結果、水俣病の被害はよりひどいものとなったのです。「水俣病の拡大に対して、行政には何の責任もないといえるでしょうか」(原田先生)


田中
Question

 情報公開を不確かな段階でするということについてなのですけれど、何のために情報公開をするのかということを考えないといけないと思います。水俣病の場合はそれがはっきりしているのですが、例えばo-157の事件でカイワレが怪しいということが言われたのは覚えていらっしゃるでしょうか。結局そうではなかったということが分かってずいぶん問題になったりしたのですが。単純な例ですがこのような場合も考えられると思います。
不確かな段階で情報公開をして、では結局誰が意思決定をするのかという問題で「皆さんにこういう可能性があるということはお伝えしましたよ。でもこれからどうなるかは分かりませんよ」という感じで、行政が言い訳づくりみたいな感じで目的なしで情報公開をしてしまうということも考えられると思います。
 また大きな被害がでる可能性がすこしでもあるのならばそれは排除すべきだという意見があるが、そういう方向に向かってしまうのを恐れて情報公開ができないというのが一般的にはあると思います。このように情報公開できないのはそういう方向に向かってしまうことに対して責任がもてないからだということもあると思います。


Question

 同じことですが情報公開しました。だから私達に責任がないというように責任が分散してしまうのではないか。


Question

 たぶんこの問題には2つの要素があって、1つはデータそのものが不十分である場合、それを理由にしてある行動が起こせないという風に考える場合です。もうひとつの問題はデータ自体はあるのだけど、それが意味することがわからない、直接被害がでるかはわからないという状態で情報を公開してしまうことの結果をどう考えるかという問題です。

 最初の問題に関してはこういう事例があります。オゾンホールが問題になったときにモントリオール議定書ができました。そのときにはフロンとオゾン層の何か関係していることはわかっていたが、科学的には実証されていなかったんです。しかしこのままほおって置けばとんでもないことになってしまうということでかなり政治的な判断でフロンの規制をやろうということを決めたわけです。
 科学者達はそこであとを追う形で証明もんだを片付けていったということがあるんですね。ですから、そういうようにだんだんとデータがないから何もしないというような壁はだんだん破られてきていると思います。

 2つ目は難しいですね。0-157の問題や原子力発電所の問題などがあります。それらの情報に対して過剰にはんのうしてしまうのをどうしたら良いのかというのは難しいですね。佐藤先生どうですか。


丸山真人
Question

 それらの問題はあとになっていえることは多いですね。松原先生の話にしてもそのときもっとやっとくべきだったというのはいえるが、その時点のコンテクストで考えてみるとやはり難しかったんじゃないかを思うんですね。

 科学者というのは誰を話し相手にしている人たちなのかと、どういった職業的な性質を持った人たちなのかとを考える必要があります。科学者と言う人がどういうことで誉められるのか、またどういうことで罰せられるのかと考えたときに、ふつうの人に話し掛けたり自分が発表したことに対する社会的な責任ということを考える訓練を受けていない人が大部分ですし、そういうことをしなくても一流の科学者になり得るわけで、良い論文を書くことで誉められるという仕組みがある以上、社会的な配慮のあるか学者がどんどん出てくるということを期待するのは難しいと思うのです。
 一方で科学者とはいえ普通の市民もかねているわけですから、一人の市民として行動するのもありだと思いますし、そういうときに自分が一人の市民であるという自覚というのは科学者という境界線の引き方とは全く別の境界線の引き方で、もっとコミュニティーの一員としてのアイデンティティの持ち方だとは思うんで、そういったことを奨励していくようなルールを作るとか、最終的には科学者という人たちを育てている私達の社会の制度にメスを入れていくことが必要になってくるのではないでしょうか。


佐藤仁
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