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最終回ディスカッション



目次
自己紹介・環境三四郎によるイントロダクション
論点1:被害者は弱者
論点2:欲望の追及
論点3:データの不十分性
総合ディスカッション

丸山真人佐藤仁小田盛川

論点2:欲望の追及

Question

 ■問題提起(命題提示)
 チッソは社会で大活躍の、塩化ビニルを生成する工場だった。生活に、豊かさ・便利さを与える物質を作っていたのです 。「このたった100年間の間に、大量の自然界に存在しない化学物質が合成されてきた。胎盤は、子供を毒物から守りつづけてきたため、人類は今まで生き残ってきた。ところが、自然界に存在しない化学物質が誕生した時、胎盤はどう対応してよいかわからない。これがどういうことなのか、胎児性水俣病の持つ全人類的な意味はなんなのか。ということを、もう一度考えてみてください。」と原田先生はおっしゃっていました。便利さを追求した代償として、環境を汚染し、自分自身を生命の危機に追いやっている。とも考えられます。「今日の環境ホルモンやダイオキシンの問題も、同じです。」(もちろん、便利さ追求が悪いことと安易にいっているのではない、知っておくことは大切だと思う)


Question

 それでは素朴な疑問を受講生の代表の方から聞きたいと思います。


Question

 欲望の追及というと、「ああ節約しないといけないな」と思ったりするのですが、水俣の問題を考えてみると果たして塩化ビニルを使うというのは本当に欲望の追及の結果なのでしょうか。つまり便利さの基準の問題なのですが、私達が生活の中で電車に乗ったり、クーラーを使ったりするというのは果たして欲望の追及なのか、そういう問題になってくると思うのですよ。一方の極端は、過激な環境原理主義の人が「自然にかえれ」というようなレベルになると思いますし、つまりどのような水準で欲望というのを捉えるかになってくると思うんです。途上国が先進国に追いつこうというのは欲望の追及とはいえないと思いますし、これは一概に言えないとおもうのですが。


盛川
Question

 これは欲望の質の問題と量の問題両方があると思います。

 欲望を考えるときに僕がいつも言っていることは、一方では生きるという行為そのものに照らして欲求を満たすと考えることと、その目的事態は食べることや眠ること、心地よい音楽を聴くことというのは全てDoing、Beingの問題と考えることができると思います。

 他方で欲望を満たすための手段が必要です。そうすると欲望を満たすためにどのような手段を所有することが必要かということがでてきます。それはHavingの問題です
 よってDoing、Beingの要素ととHavingの要素、両方の要素が欲望を満たすためには必要だということになります。

 それで問題は、人間がhavingの領域をあまりに大きくしすぎたからなのではないかということになるのではないかと思います。DoingなりBeingという目標を達成するために必要なHaving以上のHavingを求めてきた結果なのではないかということです。

 自然にかえれというのは非常に乱暴な言い方なのですが、そこまで乱暴に言う前に私達はBeing、ある望ましい状態を達成するために本当にこれまでのHavingをする必要なあるのかという問いを立てたほうがよいのではないかと思います。

 具体的にいうと、今日本郷から帰ってくるときの電車の冷房がかなり寒かったです。何で冷房をかけるのかというと外が熱いので冷房をかけるわけですが、その電車に冷房をかけずに乗ると不愉快になってしまう、その不愉快を取り除くために電車に冷房をかけるというのが普通の考え方です。しかし電車の会社はそうは考えていなくて、電車の中に冷房を入れておかないとみんなが不愉快になって暴れだしてしまうから、皆さんをおとなしくさせるために冷房をかけている。ですからどんな方法でもいいから効率的に冷やすようなことを考えればよい。そのためには単純な手段で社内を冷やせばよいわけですが、私がほんとに人間の快適さのために冷房のシステムを考えるとすれば、もっとファジーなものにして、体感温度でどのくらいの温度が快適なのかをコンピュータで計算して、乗っている人一人一人に合った温度の風邪を送るとかそのようなことを考えると思います。
 だけど今の電車の会社の人が考えているのは効率よく手段を運営するためにHavingの領域を増やしている。そこでは環境への負荷をかけるようなシステムになってしまっているのではないかということを言いたいわけです。
 ちょっと脱線してしまいましたが、脱線ついでにいうと、冷房をかける副次的な効果としてそれで風邪を引く人がでる、そうすると薬局や医者が儲かってGNPに貢献しますので、市場経済としてはうまくできたシステムなのですね。そうしてHavingを増やせば増やすほど市場経済は大きくなるのですから。


丸山真人
Question

 電車の中の冷房が人をおとなしくさせる効果があるという丸山先生の話は結構新鮮でした。
 丸山先生の話の最後には市場経済の話になっていました。ある地点に行くために3種類の電車があって、1つだけ冷房が効いていない電車があると、その電車は客から敬遠されてしまうでしょう。ある電車の会社の中で終わる話ではなくて、ある相対的な規定があるのではないかと思いました。

 市場経済の一側面として、欲望を掻き立てて、そこで掻き立てられた人たちがまたそこに油を注いでいくような仕組みがあるのではないかと思います。
 この前非常に驚いたことがあるのですが、うちの大学院を受験したいというある女子学生がきて、その人の手帳にいろいろな絵が書いてあるわけなんです。そこで「それ何を書いているの」と聞いたら、「自分のほしいものを絵に描いておくんです。欲しい服とか時計とかを絵に描いておいて、それを手に入れたらバツをする」ということを言っていました。そうするとうれしいらしいです。
 僕自身人並みの欲求とかがあるので、それがいけないことだとは思いませんが、やっぱりものすごくこう・・・掻き立てられている、様々は広告等に掻き立てられ乗っかっているんだなあっていうことにびっくりしたことがありました。

 その話と関係しているかは分かりませんが、最近とても印象深く読んだ本があって、皆さんにもぜひお勧めしたいのですが、

「近くの山の木で家をつくる本」

 これは、昔は自分の近くの山の木で家を建てるというのは普通のことだったのですが、高度成長期に建設ラッシュになって大部分の木材が海外からくることになった。そういうことと農村が過疎化して林業がダメになった、また海外の輸入材のほうが大分安かったということで、現在もどこかとおくから持ってきた木で家を建てるということが行われているわけです。
 しかも加えて言うと、日本の林業がぼろぼろになったおかげで、実は日本でとれる木というのが充分に競争力をもてるほど安くなっているらしいんですね
 にもかかわらず日本で取れる木で家を建てない理由というのがその本に書いてあって、安定な供給や品質管理という点で、一度だめになった林業というのは質の高い木を生産できない体制になっているらしいんですね。なので何か不可逆な仕組みみたいなのが合って、値段が下がったからといって需要が増えてそこが復活するといった仕組みにはなっていない。
 例えば東南アジアなどではここは大事な国立公園だからなどの理由で、自分の近くの山から木を切ってきてはいけないということが言われています。これが日本が自分の近くの山の木で家が建てれないのとパラレルになっている気がしました。

 欲望の学習効果があるのではないかということを考えました。こんなにする必要はなかったな、この程度でよかったんじゃないかと思ったときにそれは果たして逆戻りできるのでしょうか。さっきの林業の話でいうと今日本の山の木で家を建てたいと思ったときにも、それができにくい仕組みになっているわけですね。これは反省して、学習して、環境にもやさしくかつ精神的にもしっくりくるライフスタイルを選ぼうとしたときに、それガ選びにくい仕組みの中に自分が置かれているということがあると思います。時間の軸の中で欲望を考えてみて、その時間を戻ることができるような仕組みが重要だと思いました。


佐藤仁
Question

 僕はこの講義を通じて、技術革新と税制の関係がどう環境問題に影響しているかを考えてました。3人の先生が全く違うことを言っていて非常に面白かったのですが。

 小宮山先生燃費の良い技術革新が中心になった環境問題の解決を非常に重視しておられました。
 それに対して舩橋先生は技術革新そのものは欲望の方向性によってはどのような方向にもいく、つまり技術はエンジンであって欲望はハンドルである、例えば効率的な風力発電を開発しても、同様に効率の良い火力発電が開発されることはあり得るのですから、技術を税制などでコントロールする必要があるということをおっしゃっていました。
 城山先生は人の行動様式を変える、つまり炭素税を導入することなどは現実的ではない、むしろ環境的にクリーンな税制、つかいみちを環境的な要素にするというほうが良いということをおっしゃっていました。

 このようにいろいろな意見があるわけなのですが、技術革新と税制をどのように組み合わせていけばよいのかという大きな問題があると思うのですがどうでしょうか。


小田
Question

 どう組み合わせるかというときは、その制度をどう作るのかというのと切り離せない。目標を設定する前に、どういう方向で目標を設定するかに従って制度のつくりかたが違ってくるような気がするのですね。

 タイの事例にいけば、厚生省にあたるところが主導権を握るか、あるいは環境省にあたるところが主導権を握るかでずいぶんデザインが違ってくるだろうを思うのです。
 環境税を考えるとき、ベスト解決策ではないかもしれないが、石油を燃やせば税金を払わないといけないということにしておけば、それでも石油を使いたい人が使うという結果が生まれるであろうということはある程度飲み込めることだと思うし、石油をできるだけ使わないような技術革新の方向が弾みがつくということも言えると思います。
 技術革新の弾みはついていますから、ここまで技術はできるということを言って人々を啓蒙する必要があると思います。これは意味があることで、技術がここまできているということを人々が知ることでそれを実現可能な目標として設定しやすくなる。技術者はかなり現実的な考えるわけで、最初にみんなが同意できるような提示する。
 それに対して税制で方向付けをするということはある程度技術者に下駄を預けるということがあると思います。社会的な目標としては冷房はこれ以上は寒くしてはいけないというようなことを設定すれば、技術者はもっとファジーな冷房装置を開発するようになると思うのですね。
 人々がどんなBeingに近づこうとしているのかを明確に捉えた上で、それにふさわしい税制はどうなのかということを考えて制度を作って技術者をそっちの方向に引っ張っていくということになると思います。

 環境税をどのように使うのかというのは割と重要で論争もありまして、環境に負荷をかけた企業から取り上げた税を環境のために使うのか、それとも一般財源として使うのかという議論はあると思います。これは専門家の中でも立場が別れていて、城山先生はむしろ福祉財源としてつかうべきだという意見を述べておられるのだと思うのですが、それはそれで意味があると思います。なぜなら環境税を環境保全のことに使おうということになると、環境保全のために必要な技術革新のために使おうという話につながる、そこで多様な技術革新の方向があるのに補助金を一定の技術開発にしか支払わないということは多様な可能性を狭めてしまうということになります。ということで開発に対してバイアスをかける事でのマイナスはあると思います。


Question

 私は税制などに詳しくないのであまり無責任なことはいいたくないのですが、確かにほうっとけば技術が解決してくれるという考え方は根強く一部の人たちによって提唱されるものだと思います。

 昨日国際シンポジウムで環境と紛争に関するものに出ていたのですが、地球上では様々な紛争があるのですが、そのほとんどが天然資源のコントロールに起因しているものです。
 自分達の生活を豊かにする、またはすくなくとも生活を維持するためにどのような資源配分がフェアなのかは、どうしても技術では解決できない問題なのではないかと思います。技術が発達していって様々なエコフレンドリーな技術が出てくるのはおおいに結構なことなのですが、やはり最後の最後のところで人間同士が一緒に生きていくときにどういう仕組みがフェアなのかという問題に関しては科学も技術も答えを出せないですね。それをどういう風に健全な考え方で出していくということは考える必要があって、そうすると何でもかんでも技術者にに任せとけば解決するという風に考えるのは危険だと思うし、そういう側面で技術者に全てを任せればいいということではないということを社会科学の立場から環境に関わるときには言いつづける必要があると思いました。
 ただし、明らかに今こんなに自動車が普及していて低燃費の自動車が開発されることや、このような税制を導入することで明らかにこのような結果が期待できる、しかももそれが失敗してもそれをとりやめてまた新しいことを考えることができるという可逆性がある場合はどれが正しいかということを最初から判定するのではなくやっぱりどんどんやってみるということが大事なのではないでしょうか。





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