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最終回ディスカッション



目次
自己紹介・環境三四郎によるイントロダクション
論点1:被害者は弱者
論点2:欲望の追及
論点3:データの不十分性
総合ディスカッション

丸山真人佐藤仁小田盛川

論点1:被害者は弱者

Question

  ■問題提起(命題提示)
 「被害者は、社会的・生理的弱者です。自然の中に、自然とともに生きている人たち、その人たちは世界中でも大体において貧しい人たちです。子供や年寄り、または汚染されていることがわかっても、その土地から離れられないような人々が、環境汚染の影響を受けやすいことを、一つの教訓として水俣病は示しています。」(原田先生)

ディスカッションの様子
Question

 環境問題は、被害者は、同時に加害者でもあり、区別をつけるのはナンセンスだとも考えられます。
 しかし、「ごみは他人に、ゴミは田舎に、ゴミは子孫に」という文句に象徴される"環境負荷の外部転嫁"−郊外の基本構造−は、現在でもよく見られる現実です。
 舩橋先生が、放射性廃棄物を外部転嫁の典型としてあげていました。「原子力発電所が、六ヶ所村にあるのはなぜですか。本来なら、最も電力消費の多い都心・東京にあるべきではないのでしょうか。都心に住む私達は快適に電力を消費し、そのリスクは六ヶ所村の人々が負っている・・・。」チェルノブイリのような事故が起こらない保証はどこにもありません。高レベル放射性廃棄物からでる、環境への被害は影響ないといいきれないでしょう。 私達の水を得るためのダムだって、建設のために村が沈没・・・下流の漁民が影響を受けるなどの犠牲の上になりたっている・・・。 公害を筆頭に往々にして被害を受けやすいのは社会的生理的弱者、と一般的な→一部の地球環境問題においてもいえるのではないでしょうか。

 佐藤先生の挙げられた焼畑と農民に関する例に明らかです。
 「貧困ならば過放牧するほど家畜を飼うことができるでしょうか。非持続的な方法とありますが、もともと持続的な焼畑方法を政府が禁止したからではないでしょうか。過剰な薪の採取といいますが、本当に貧困ならば過剰に集めるまでの労働力があるのでしょうか。」
 砂漠化・森林減少の被害者は、生活の糧を零細な農業に頼らざるを得ない、貧しい農民なのです。


Question

 被害者=弱者論に関するディスカッションなのですが、このような問題の設定の仕方について小田さん、盛川さんから今まで授業を受けていて考えたことや思ったことを自由に述べてみてください。


丸山真人
Question

 水俣病は非常に被害者と加害者がわかりやすい構造にある。しかし他の公害問題「大阪国際空港の騒音」はそうはいえないかも知れない。被害者は弱者になるとは限らないのではないか。


Question

 環境問題の被害はまだ出ていないということもある(温暖化など)。弱者のみならず全員が被害を受けるということもあるし、弱者が被害を受けるということで対策を立てていくと、大規模な対策が取れない気がするのですが。


Question

 公害問題というレベルで考えたとしても被害者が弱者ということはいえないこともある。被害はまだ出ていないという意見が出ました。これについてどう考えるかということですが、佐藤先生いかがですか。


Question

 まず、公害についてはあまり知らないので、多少アナロジーとして私の身近な問題を話したいと思います。私の講義の中でも少数民族という、森林問題についていわゆる弱者と言われる人の中に入りこんで、彼らがどういう暮らしをしてどういう問題に直面しているのかということについて考えていたのです。
 そこでどういうことを調べようとしていたのかというと、地球レベルで重要とされる森林に彼らがどの程度依存しているかを調べようと思ったのです。そのような分析方法についてアメリカで発表したことがありました。そこで私の尊敬する先生から次のようなことを言われました。

人々がどれだけ森によって助けられているのかということを言いつづけいているだけでは人々の立場の向上はない。そうではなくて、森がどれだけ人々に助けられているかということを合わせて示したときに「かわいそうな弱者というロジック」から抜け出すことができるのではないか。」

 ひとつのヒントというのは、弱者という人々は構造的な問題が最初に兆候として現れるところに居合わせる人々だとすると、同時に構造的な問題だと考えないといけない。全体の構造を維持したまま時々に出てくる兆候の部分にだけ対処していいのだろうか。そういうことにとらわれているせいでしばしば重要な問題が反復してきたのではないかということを私の授業の中で言ってきたのです。

 まとめていうと、気をつけないといけないのは誰に対しての弱者なのか、それに対しての強者はどういう位置付けになっているのかということが重要だと思います。それによっては強者といわれる人々が弱者に依存していることもあるだろうし、その側面だけを見れば弱者も強者といえるのかも知れない。関係をスケッチしていくようなことが必要なのではないでしょうか。


佐藤仁
Question

 佐藤先生の話は弱者の所にも目を向けないといけないだろうけど、もっと全体的な目を持ってみないといけない側面もあるということだったと思います。
 ここでもっと具体的な例を挙げて考えてみたいと思うのですが、どのような例があるでしょうか。


Question

 アムナート先生の事後企画で、タイの政府としては地域住民がマングローブ林に依存して生活をしているのは仕方がないという立場をとっている。そうするとそこに小さな村ができるのですが、皮肉なことにその村に対して企業が介入していって人々がどんどん集まってそこが発展していってしまうということが起こったらしいのです。佐藤先生にお聞きしたいのですが、この場合熱帯雨林の場合とは別の状態が起こっていると思うのです。政府のウェルフェア政策によって図らずもマングローブ林の被害を拡大させていることがあるということに対してどう思われますか。


Question

 最初にそこに貧困があってとおっしゃりましたが、なぜそこに貧困と思われるような状態があるのかというのがひとつの問題ですね。それはどういう意味でそこに貧困があるのかということと、なぜ解決策として政府はそこにインフラを立てたがるのかということを検証しないといけない。

 エコツーリズムというのは環境が豊かなところで貧しい人たちが環境を保護しつつ、自分達の生活を助けるという手段ですが、それには道路を作ったりインフラを作らないといけないと言うのがひとつと、それがうまく行き過ぎるとごみとが騒音とかいう新たな問題が出てくる。

 ひとつの視点は注目の配分だと思うんですね。多くの注目がそれを受け入れる器がないところにたくさん集まるとどういうことが起こるかというと、先ほどのエコツーリズムの話で言うと、あまりに儲かるようなビジネスになってしまった場合にその地域の人たちはその儲けを自分のものにするような力を持っているのか。しばしばあまりに儲けるようなビジネスが発生した場合に、それに対してもっとパワフルな力を持った他の企業がきてそのチャンスを取り上げてしまうということあるんですね。
 そういう風に考えると程々なところということがあるということがある気がします。どのへんが程々なところなのかというのを最終的には誰が決めるのかということを考えると、最終的には当事者の中で決めざるを得ないと思うのですが。

 このように小田さんが提起された問題の中にはいろいろな普遍性の高いジレンマが含まれていて、それをひとつずつ点検するというのは、環境問題の勉強としての面白さと実践としての難しさ、両方考える上で重要だと思いました。


Question

 小田さんの話は、国立公園の近くに非合法の小さな町ができるのですが、政府は黙認しているうちに、町がどんどん発展してしまってどうしようかという状況になる。そこに目をつけた企業が入ってきて、また新しい森林を破壊してしまい環境が劣化してしまう問題があるらしいです。うまく行き過ぎるとこのような状況になってしまることを、佐藤先生の話はズバリ指摘していらっしゃいました。

 気を付けないといけない点を私なりの結論を出すと、弱者を救済するという発想自体がおかしいとしてもですね、じゃあ弱者が自立して経済的に発展すればいいという風に問題を立て直した時に、どういう方向で発展していけば環境に負荷をかけない形になるのかという問題を一緒に考えないといけないということになるのではないでしょうか。


Question

 アムナート先生とその話をしたときには、まず環境を扱う省庁が協力して最終的に何をしたいのかをはっきりさせておかないといけないということを話しました。だから将来的なビジョンを立てれば環境保全と町の発展というのは両立できるのではないかということに落ち着きました。





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