自己紹介
科学編集者・ジャーナリストの林です。科学技術系のシンクタンクで研究をしたり,まちづくりや科学教育のNPOの活動もしています。
科学雑誌は売れないのか
94年に岩波書店に入り去年の春まで「科学」という雑誌を編集していました。
科学雑誌が売れないという声をききますが、そんなことはありません。
私が編集していた7年間に部数が増えるようになりました。
伝え方次第では、科学雑誌はちゃんと読まれるのです。
なぜいま科学雑誌が読まれるのでしょう? まず、魅力的な科学の成果がどんどん出ていることがあります。
また、大震災・環境ホルモンなど科学的な知見なしには、
個人的にも社会的にも意思決定が難しい問題が多い昨今の社会状況も科学雑誌を求めています。
今、専門家と知的な市民が読む共通の媒体が求められているのです。
科学雑誌は、市民にも科学者にも読まれ、研究が社会的にどういう意味を持っていたかを、
研究を発表した学者自身にも納得させられる媒介にもなりえます。
出会い
世界で最もよく売れている科学雑誌の一つ、Scientific American150周年記念のパーティーで当時32才だった同誌の編集長に会いました。
将来どんな科学ジャーナリストになりたいかを聞かれ、
「科学の本の編集をするようになると思います。」と深く考えずに答えました。
彼は拍子抜けをしたといった顔をしていました。
後で考えれば、「どんな分野でどんな専門性をもってジャーナリストとしてやっていきたいのか」
というのが質問の真意だったのでしょう。
それに答えられるような志を持っていないということに気づきました。彼と同じ32才になるまでの数年の間に何かやってやろう、
という意欲をかきたてられた出来事でした。
イントロダクション
地震と震災は違います。
大地震は地下で地震波が発生する自然現象で、
その結果地上に社会現象としての大震災が発生する。
地震は自然現象であるのに対し、震災は社会的現象なのです。
このような問題に対しては、自然に対するアプローチと社会に対するアプローチの二つが考えられる。
もし地震に強い町を作っておけば、地震動がとおりすぎるだけでおわるわけですね。
地震に弱い町を作っておくと、大震災を招いてしまいます。
地震は制御できなくとも、震災はデザインできるとすらいえるでしょう。
ついつい地震と震災は同じもの、したがって、大地震がおきたら大震災は仕方がないものだ、という考えを持ってしまうことが、
自然現象と社会現象は切り離して考えるべきなのです。
これと同じように、今回の講義のテーマになっている環境問題を自然現象・社会現象にわけて考えてみると、
その大部分は自然そのものの問題というよりも社会的な問題ではないでしょうか。
自然のなかで自然と関わっておこなわれる人間活動の矛盾が人間社会に大きなインパクトを
もたらすくらいに拡大してしまったものが、環境問題なのではないか。
このような問題の解決に科学ジャーナリズムはどのような貢献ができるのだろうか。
たんに科学の成果をわかりやすく伝えるだけでよいのでしょうか。
科学ジャーナリズムの現状を簡単にレビューした上で、環境問題の本質に迫るための道筋を考えたいと思います。
また、私は地震も環境問題であると考えております。
社会・人々が作り出す様々な問題が環境問題だと私は捉えています。
それらをどうやってコントロールしていくかというところに科学ジャーナリズムの役割があると思うのです。
今回の講義の四つの結論
【1】地球温暖化という仮説のもつ意味
約200年前のマルサスの『人口論』(1798)や、1970年代初頭のローマクラブの『成長の限界』などによって
「このままでは地球はパンクしてしまうのではないか」という警告が繰り返されていた。
そのような警告がされる中、紛争、貧困、飢餓、貧富の拡大といった解決すべき課題は、20世紀の時代の流れとともに
むしろ大規模化・深刻化していった。
それらの解決のためには、各国がその利害を乗り越えて強調して問題解決にあたる
国際的な議論の場が求められる。しかし、ななかなかそのような議論の場を持つことはできなかった。
そこで、欧米の気象学者たちが、考え出したのが、「グローバルな」社会的問題であった。"核の冬"や"オゾン層破壊"に続いて考え出した
新たなシナリオが、人間による大量の化石燃料の消費によって生じる"地球温暖化"という
ここで問われているのは、二酸化炭素排出量の増大によってほんとうに温暖化が生じるのかという自然科学的な問題だ
というよりも、気候変動にさえ影響を及ぼしうるほど拡大してしまった人間による経済活動のあり方だといえる。
自然科学者が発した、地球温暖化という仮説が、国際社会を動かす説得力をもったところに、
大きな意味があると考えています。
【2】市民社会における科学ジャーナリズムの役割
知識のない市民に正しい科学知識を伝達することが科学ジャーナリズムの役割だが、その科学ジャーナリズムが
機能していないと、科学者によって批判されることがある。しかし、その科学者がいつも正しいことをいっているとは
限りません。
むしろマスコミには乗らないような大まちがいの情報発信が科学者であることによって許されてしまうような
状況さえあるのです。 いっぽう、市民の行動を分析してみると、特別不合理であるわけでもない。
科学者の仕事が"狭く・深く"事実を追究するものであるのだとしたら、科学ジャーナリズムの役割は、
"広く・深く"事実に迫り、科学者を含む社会に向けてその意味を語りかけ、正当なリスク・コミュニケーションに
よって科学に関する事故や事件を未然に防ぐとともに、科学を社会の中に育てていくことにあるといえます。
私は、科学ジャーナリズムの役割を通常言及されているものよりも広く捉えていきたいと思っています。
【3】パターナリズム(父権"お任せ主義")からの脱却
この一連の講義でみなさんが気づき始めていること、あるいは環境問題が示していることは、誰か
(科学者、行政、…)がすべて正しい答えや解決法をもっていることはなく、むしろ、それぞれの立場やある
限られた知識をもとに、結論を導こうとしている場合が多いということではないか。したがって、特定の個人や団体に
意思決定を委ねてそれに"お任せ"にしてしまっても、環境問題は解決しないのでないか。
権威に従い意思決定や解決を"お任せし"、まちがいに気づいたときだけそれを糾弾するというような、
パターナリズムは、じつは、権威に対する強烈な甘えそのものだといえる。
そこから脱却し、環境問題の解決をめざそうと思うなら、他人を"啓蒙"してやろうと思う前にまず、
自らその未成年状態を脱しようとする勇気と悟性をもつこと(本来の啓蒙思想"における自ら"啓蒙"する精神)が、不可欠だ。
【4】トレードオフにならないための科学技術
今回の講義のテーマはトレードオフでした。
一人の人間に与えられた時間は有限である。したがって、ある時に何かをやろうとしたら何かを諦めねばならないことになる。このようなトレードオフは、じつは当たり前にみられる。しかし、環境問題のような複雑な(変数の多い)社会問題の場合、トレードオフが成り立つのは・トレードオフに見えるほうがむしろ特殊な状態だともいえるのではないか。
安井先生の扱っていたリサイクルの問題では比較的きれいにトレードオフはなりたつが、実際はもっと「欲張って」よい。
リスク低減やコストとベネフィットの向上をともに実現するような、人間の欲望に素直な新しい選択肢を生み出す"知恵"が求められている。
ここでは、"勇気と悟性"に基づいてプロデュースしている、新しい学問『千年持続学』の考え方を紹介したいと思います。
悟性:理性、感性と並ぶ人間の認識・判断能力の一つ。とくに、理念の能力である理性と異なって、感性に受容された感覚内容に基づいて対象を構成する概念の能力、判断の能力をいう。
ジャーナリズムとは何か
(井上正男(北國新聞論説委員)による)
ジャーナリズムとは何かを骨太に考えてみましょう。
「ニュースのはたらきは一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきはそこ(ニュース)に隠れている諸事実に光をあて、相互に関連づけ、人びとがそれ(関連付け)を拠りどころとして行動できるような現実の姿を描き出すことである」
(ウォルター・リップマン:世論、岩波文庫(1922))。
ニュースと真実というのは異なっており、ニュースの中から真実を導き出すことが科学ジャーナリストの役割だということですね。
ここには、人びとの行動の拠りどころとなるようニュースに隠れている諸事実を掘り下げて関連付ける,大変に苦しい社会的な作業という、科学者・技術者にも、一般の人々にもできない、近代ジャーナリズムの存在理由が明確に語られている。科学ジャーナリズムを含めたこのジャーナリズムの原点は、これからの電子ジャーナリズムの時代でも変わらない。
ジャーナリズムとは、
1 ある社会共通の価値観や行動指針となる世論を形成するために
2 同時代に起こっているありきたりではない出来事を
3 批判精神をもって価値判断し
4 その結果をニュースとして、あるいは評論として
5 より速く
6 より正確に
7 より公平に
8 社会に伝えていく
9 報道あるいは言論活動
より速くとより正確に、というのは時にトレードオフになりうるところです。それを考慮した上で報道していることを、報道の受けての側も知っておくと役に立ちますよ。
一流の科学ジャーナリズムとは何か、を考えるために、三流科学ジャーナリズムを考えてみましょう。
三流ジャーナリズム? その条件とは
- レッテル張り
例:「反原発」か「原発推進」かといった単純なレッテル張り
- 吟味なき断定
例:「自己の価値観が非常に強く、自己評価が甘い種類の人間」
- 客観性を装うレトリカルな説明手法
例:3人の話者が違う立場で意見を表明していながら、最終的に一つの見解に落ち着く。
- 論理の一貫性のなさ
自分に都合のよい話を都合よく並び立てることによる内部矛盾
(このような三流科学ジャーナリズムは、新聞などではほとんどありえない。なぜか?
⇒演習問題)
これに関しての演習問題です。 すでに講義されている安井至先生の発言記録(環境三四郎WEB)にたまたま目がとまったので、そこからひっぱってきました。論理の一貫性なさがわかるでしょうか。
廃棄物問題の本質について
ダイオキシン問題
「これまでにダイオキシンで死んだ人は世界で4人。いずれも合成中のことで、普通に 死んだ人はいない。ダイオキシンの影響を受けるのは胎児だけなので、現在30歳台の人が一番の被害者と考えられる。」
「ダイオキシンで死んだ人が世界で4人」というのは、急性毒性によってなくなった方を指しているんですね。発ガン性の問題が考慮されていないのは疑問ですが、もっと明らかなのは、ダイオキシンで死んだのが合成中のできごとであったことと、ダイオキシンの影響を受けるのは胎児だけということの矛盾です。
新聞などでは、ふつうこういう報道はありません。 デスクなどがチェックしますから、そこではねられてしまうでしょう。 インターネット上の発表では、科学者自身の発表であっても、当然のことそのままでるわけです。
上は、安井先生の発言自体の問題なのか、環境三四郎の担当者の方がうっかり書き間違えてしまったという問題なのか、どちらであるのかはわかりませんが、いずれにしても、こういった論理の一貫性のなさについては、情報を受け取る側も発信する側も気をつける必要があります。
『知識としての科学』と『社会的営みとしての科学』
私たちは小中高を通して、科学といえば、「知識としての科学」と捉えますが、
実際、科学というのはもっと社会的営みを担っています。
「知識としての科学」は社会問題にはならないのですが、
「社会的営みとしての科学」は公的な資金が投入されていることもあって、常に問題になるんですね。
地震予知は悪い研究の例だと、できもしないことにお金を費やしていると批判にさらされています。
もしも
『知識としての科学』なら、予知がいまだに成功していないという点で、上の指摘は正しいかもしれません。一方、
『社会的営みとしての科学』としてみると、別の評価ができると思います。
「できもしないことにお金を費やしている」というのは、
科学者や国民の声が行政を動かした貴重な例であって、
地震が起こる前に本格的な地震対策をできたのか、という点で参考になるからです。
研究が進み、科学者はそれを社会に向けて発言することによって、説明責任を果たしました。
科学ジャーナリズムによって報道され、国民に伝わり、世論が生まれ、
国会議員が法案を提出するなど、それらが東海地震予知防災体制へとつながった。
ボトムアップのよい例だと思います。
1.研究の進展
1960〜70年代のプレートテクトニクスの成立
過去の地震像の理解の進展
2.説明責任をはたす
石橋克彦氏による明快な問題提起(駿河湾地震説)
予想される東海地震のメカニズムを説明するだけでなく,災害の点からは“直下型巨大地震”という最悪のケースであることを指摘
3.ジャーナリズムによる積極的報道
4.静岡県知事と地元出身国会議員の活動
1977年10月原田昇左右衆議院議員による原田私案
11月自民党“大規模地震予知対策特別措置法案要綱”
12月全国知事会“大規模地震対策特別緊急措置法案要綱”
翌1978年6月“大規模地震対策特別措置法”成立
1980年5月の地震財特法で財源措置を福田内閣が認める
ここで、
地震や環境問題、原子力など複雑な問題を考える時には、科学の法則にはいろいろなレベルがあるのだということを知っておいて下さい(都城秋穂:科学革命とは何か、岩波書店)。
1. 普遍的法則…ニュートンの3法則など、ある法則にのっとって起こるもの
2. 確率的法則…放射性原資の崩壊など、ある確率でおこることが証明できるもの
3. 傾向的法則…確立を求めることはできないが、その現象が起こる(起こった)ことは説明できる
(たとえば、風邪をひいた人の近くにいると風邪をひきます。ただその確率は説明できません。)
3のレベルを2と同じように考えてもいけないし、3のレベルだからといって無視してもいけない。
地震予知ができるかどうかに議論が集中していたが、「よちよち(予知予知)歩き」は終わりにしてもらいたい。
耐震(安全)と快適な生活の共存は可能である。
全国の商店街で進んで企画されていることがあります。
「地震が起こったら、商店街に行って非難生活ができますよ。
年5000円でいいです。もし地震がなかったら、おいしいリンゴやお米をおとどけしますよ」というものです。
地震対策はお金がかかるから、気後れしがちだが、少し工夫をすることによって、防災は、楽しく儲かる地震『楽災』へと変わる!
行政ができないことを町の人がやっているのです。
こうやってみると、
科学ジャーナリズムの役割はずいぶんと広いな
と思われるのではないでしょうか。
まず科学ジャーナリズムは「正しく伝えているか」を問題にしている人が多いと思います。
正しく伝えているかそれだけではなく、わかりやすく、あるいは楽しく伝える行為も重要なんだ、と気づきます。
また科学もいろいろと問題があるのだから、批判の精神をもつことも大事です。
ここまで科学ジャーナリズムの範疇ではないと反対する人もいますけれども。
今までの科学ジャーナリズムの役割は、「難しい」科学をいかに人々の易しく伝えるかを評価されてきた。しかしこれは欠如モデルとよばれるようになりました。一方
成熟した市民仮説に基づいて、科学ジャーナリズムの役割を考えたいと思います。
科学ジャーナリズムの役割についての気づきの4段階(経験則)
(1)科学ジャーナリズムは正しく伝えているか(その専門からみて正しくない!)
(2)科学ジャーナリズムはわかりやすく、あるいは楽しく伝えているか(むずかしくて、不適切だ!)
(3)科学ジャーナリズムは批判精神をもつべきだ(それがなく、科学の宣伝ばかりしている)
(4)科学を育てるのが科学ジャーナリズムの役割だ(というところまで行くのは少なく、むしろ反対する人も。しかし『Nature』は創刊時からこれをやっています)
科学者が万全で、市民が無知か
堺0-157カイワレ大根事件による検証
パニックがおこりました。
市民の知識が少ないからだといわれましたが、
専門的なことがきちんと説明されていないことに問題があると思います。
主要な感染ルートが特定されなかったんですね。
O−157は牛の腸に存在します。カイワレが危ない、とされたがこれは二次汚染。
もちろん学校給食のなかで共通してみなが食べたカイワレを感染源の候補の一つとして追究するというところまではいいのですが、研究の対象はそれでよかったのでしょうか。
証拠は二つ。共通の食材・DNAの電気泳動から見て、感染源はひとつだと。
しかし、感染ルートまでは特定できなかった。
基礎知識と論理学が弱かった。厚生省がプレスリリース(記者クラブでの発表)をする。それをマスメディアが市民に伝える。
科学者や行政の一部が言っているのを信じる。そして見かけのパニックがおこり、埼玉県の農家が影響をうけたのです。
人心が大きく乱れパニックがおこったというよりも、小さな判断のつみかさねで消費回避行動がおこったということをもって、見かけのパニックだといえるでしょう。
厚生省の言うことそのままを報道し、基本的な知識は伝えられていなかった。
細菌生物学という科学を育て、それを社会に生かすことにも失敗してしまった。
そして、いまでもあの年ほどではありませんが、毎夏、こどもやお年寄りを中心に感染被害が続いているのです。
これを少し採点してみたいと思います。
市民はどうだったか
1報道を批判的に受けとめそれ以上に合理的な行動をする。
2報道を理解し危険回避の行動をとる。
3報道の意味を理解できず無視する。
(レベル2ですね)
科学ジャーナリズムはどうだったか
1情報合理的な方法を提示する(できていませんね。)
2情報を吟味して伝える(吟味されなかったですね。これが問題です)
3情報を右から左からへ正しく伝える(厚生省の言っていたことを正しく伝えたと言う点では、これはできていました。したがって、レベル3です)
市民ばかりに問題があるわけでは、決してないのです。
狂牛病
また、市民へのアンケートを見てみます。
狂牛病の情報について、最初に知ったのは9割方がテレビだと答えています。
しかし最終的には、テレビ以外のメディア・新聞や雑誌やネットによって、判断を下しています。
市民が信じこみやすい扇動されやすいとは必ずしもいえないでしょう。
戦後の"啓蒙ジャーナリズム"到達点と限界
建物は震度5の地震に対する耐震しか設計されていませんでした。
思いもよらない大地震と、工学者からの発言もありましたが、本当にそうでしょうか。
1980年から中学校の教科書に、
活断層の説明の欄で、神戸市の六甲山地が変動する大地の典型例として、こんなにも堂々とだされていました。
図入りでかなり詳細に描かれています。
また、水俣病では、報道の中立性を保つばかりに、真実が多くの仮説の中に埋もれ、原因の特定・被害拡大の防止・責任の追及が大変遅れて今いました。
水俣病患者をずっと診てきた原田正純氏は「病者の立場にたたない医学はあるのか」と強く問いかけられました(裁かれるのは誰か、世織書房)。
同様に、「市民の立場にたたない科学ジャーナリズムはあるのか」という問いかけもできるのではないかと考えます。
パターナリズム(父権"お任せ主義")の効率性と限界
ここでいうパターナリズムとは、行政やエリートにゆだねておけばいいというものです。
啓蒙の真の意味とは
啓蒙とは何か。明治の初期には開明、という訳もされていました。それが、蒙キヲ啓ク、知恵者が無知な人間に知識を与え正しく導くといったイメージをもつ、強烈に他動詞的な古い日本語をあてた訳が定着するようになったのです。
ヨーロッパではそういう意味では使わていなかった。
カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)によれば、
“啓蒙とは,人間が自分の未成年状態から抜けでることである,…未成年とは,他人の指導がなければ,自分自身の悟性を使用し得ない状態である.…この状態にある原因は,悟性が欠けているためではなくて,むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである.それだから「敢えて賢かれ!(Sapere aude)」,「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」――これがすなわち啓蒙の標語である”
となっています。
つまり、人のことをとやかくいうのではなく、自分が勇気をもって悟性を使用するということなのです。
悟性の重要性
人のことよりまず自分のこと。それが啓蒙。千年持続科学というものをプロデュースしています。10年100年単位で考えていますが、もし1000年単位で考えられたら・・・千年使える住宅。各世代の負担が小さくなりいい家にすめることになります。
これについては、希望者に調査報告書を差し上げたいと思いますので、リクエストしてください。(資源の総合的利用に関する調査――千年持続社会の構築に向けた科学技術のあり方に関する調査委員会報告書,社団法人資源協会(2001年度))
リスク・コミュニケーション
定義:リスクについての、個人、機関、集団間での情報や意見のやりとりの相互作用的過程
リスク・コミュニケーションの送り手の四つの義務
- 実用的義務:リスク回避に役立つ情報
- 道徳的義務:伝える
- 心理的義務:知識を否定しない
- 制度的義務:政府は効果的に効率的に
1962年ケネディ教書:消費者の四つの権利
- 安全を求める権利
- 選択する権利
- 知らされる権利
- 意見を聞いてもらう権利
リスク・コミュニケーションと情報公開の違いをお話しようと思います。
情報公開はリスク・コミュニケーションの一部である。
しかし、公開するところでおしまいなんですね。
あとはみなさんでやってくださいというものです。
市民に情報を伝えた後も
リスクへの対応法などをを専門家・市民・行政が一緒になって考えることがリスク・コミュニケーションです。
科学ジャーナリズムもどういうふうにやっていくのか方法までを視野に入れなければいけません。
正当なリスク・コミュニケーションのためにふまえておくべき人々のリスク認知の「バイアス」がかかっています
さまざまなリスク評価の基準がありますが、
私たちは
- ひとたび起きたら被害が大きい
- 子どもや孫に影響が及ぶ
- 目に見えにくい
- 通常とは異なる死に方をする
- 新しい、よく知らないもの
に対し、実際以上のリスクを感じています。
ここで
実際の新聞記事はどうなっているかを見ていきます。
メディアリテラシー
リテラシーというのは読み方。
サイエンスリテラシーというのは、科学についてきちんとした理解・判断をしていくということですね。
メディアというものがどういう風に伝えているか。常識を理解した上でメディアの様相を正しく受けとめられるようなこと能力がメディアリテラシーです。
メディアの実態に迫りたいと思います。
4月6日の朝刊にとりあげられた「クローン人間妊娠か」という記事を各紙の報道のされ方を比較します。
表を見ていただくとわかるとおり、朝日・日経・東京・読売新聞に比べ、
産経と毎日新聞はかなり多く取り上げています。
この2紙では、
モスクワの特派員が記事を書いています。
一方他の新聞を見てみましょう。
共同というのは共同通信の配信記事を利用したことを意味します。
タスって言うのは別の通信社。
アラブ首長国連邦の報道としてタス通信が伝えたことを、そのまま載せたということです。
読売新聞も同じ共同通信のものを使っています。見出しだけ違う。
工夫した点として、ヒューストンにいる女性記者がイタリア人医師の知り合いのアメリカ人研究者に電話でインタビューした内容、日本の担当官僚のコメントを追加しています。
日経・東京新聞も共同通信の記事を使っています。
産経新聞は、モスクワの記者がタス通信を読んで
重要な問題だということで、独自に記事を書き、さらに東京の記者が署名記事を加えています。
毎日新聞は
土曜日朝刊一面。モスクワ特派員の署名記事に加え、東京で用意した記事がいろいろ掲載されています。
この専門家のコメント部分の見出しには「技術的には未確認」と書いてあります。驚いたのは、
「動物での成功は難しい」ことをいくつかの事実を並べて説明した上で、
最後に、
「クローン人間というのはコメントするのもけがらわしい」と述べられていることです。あきらかに人権侵害じゃないかなと思うのですが。
家畜の研究者にしてみれば、クローン人間なんて騒がれて専門の家畜クローンの研究が妨げられてはたまったもんじゃないという意識が感じられますね。
毎日新聞はこの後すぐに特集をしています。
日本で取材して書いた記事・ロンドンでの共同電を使って宗教会の情報を入れている。
内閣府の役人の意見も入り、割と広がりのある記事になっています
一番考えさせるひ深いコメントだと思ったのが、産経新聞の取り上げたこの「沈黙せざるをえない」という最相葉月さんのものです。
クローン人間をつくることについて「今まで否定的な意見を述べてきたが、妊娠した女性、批判の中で生まれてくる子供のことを考えると、沈黙せざるをえない」と書いてあります。
問題の深さを切実なコメントで表現していると思いました。
中身の比較などについては、この後のゼミで検討しようと思います。
クローン人間妊娠の記事に関しては、技術的な解説が多いです。
とくに毎日と産経新聞。なぜすぐに比較的くわしい技術的な解説がでてきたかというと、事前に記者が科学的な事に関する知識をある程度持っていたからでしょう。
これと比較するとおもしろいのが、
同じ4月に起こった
みずほ銀行のシステム障害の報道です。
全貌を簡単に紹介することはできませんが、
各紙の記事を追いかけると、技術的にどこが問題なのかということをふまえて
どれだけ迷惑を被っているか、社長の経営責任はどうなっているのかという話ばかりが報道されていました。
なぜ、このような違いがそうなっているのかをメディアリテラシー的に考えてみると、
一つは、前に述べたように、
クローンの問題はすでに記者が勉強していた。突然起こった事件だが、対応ができた。
専門家の声を取り入れることができている。
どこに専門家がいるかということを知っていて、すぐに電話をかけることができた。
一方みずほ事件では、科学的な問題が解説されていません。
ITの進歩に新聞社を含めた社会の側がおいついていないんでしょうね。
ジャーナリストや研究者の中にも消化している人が多くない。
また、クローン問題は科学部の問題になったのに対し、みずほ事件は経済の問題となって、経済部の記者が担当したことも影響しているのでしょう。
もちろん、銀行内部、正確には銀行とシステムを開発した企業内での失敗であり、専門研究者もなかなか推測以上のことはできないということもあります。記者がくわしい専門家を探し出すことは不可能だったのかもしれません。
これは、特殊な状況でたまたま起こった事件だと言えるのでしょうか。
それとも、日本のIT技術の現状では、信頼や企業の意思決定に関して同じような問題が発生する状況が実は広まっているのでしょうか。
先見性をもつ科学ジャーナリストからの問いかけは残念ながらあまりないなと感じています。
この後の議論はゼミで行います。
まとめ
このような新聞比較を環境三四郎のみなさんとやってみて、深く知ることは重要だなあと改めて自ら啓蒙されたようです。
正当なリスク・コミュニケーションのために。
専門家は専門の目で見るのでシャープにとられえるが、ときにとり入れるべき要素を少なくしてしまう場合があります。
トレードオフという観点からいうと、対立する要素以外全部
落としてしまうこともある。
「確率としては小さいが、ひとたび起きたら被害の大きいもの」を
期待値だけで議論してもいいのか。
「影響が子供や孫に及ぶ」、
「影響が目に見えにくいもの」、
「通常と違う死に方をする」、
「新しくよくわからないものもの」。これらには、私たちはより大きくリスクを感じてしまう。
そういうリスク認知は、合理的なのか非合理なのか
非科学的なのか科学的なのか、納得できるのものなのかどうか、
議論してもおもしろいと思います。
私の考えは、そういう市民のリスク認知の歪みをベースにしたリスク・コミュニケーションや科学技術であってほしいというものです
信頼関係と有効性
カントの言葉を借りていうなら、"勇気と悟性をもて,敢えて賢かれ!"
一生懸命勉強した知識と勇気と悟性をもって、敢えて賢かれ
という言葉をもって講義を終わりにしたいと思います。
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