1.「問題」が反復するとき
様々な問題が反復して起こることがある。例えば、貧困だとか、不平等だとかいう問題は、昔から問題だ問題だと、社会で騒がれているにもかかわらず、望まれない問題が反復するということは、その問題が果たして正しい設定をされているのか、ということ自体に問題があることがある。つまり、問題の設定自体が間違っている可能性があるのです。
例えば、タイでは森林面積は減少する一方ですが、森林局の中身を見てみると予算やスタッフは増加している。森林局が管理する森林面積は半分になっているのに、森林局へかかる費用などは増えている。これは何故なのか。これまではずっと「(森林局への)援助がもっともっと必要だ」と国際環境協力の中で考えられてきていました。果たしてそれは本当なのでしょうか。文化人類学者の調査では、農民にしかるべきインセンティブを与えれば適正に管理できる、という多くの結論が得られている。しかし、政策の実態は、こういった研究が多く出ているにもかかわらず、トップダウン的なものが多く出されているのです。
その例を一つ挙げます。1997年、タイでこんなことがありました。ある村人が、自分が住んでいる森によそ者が盗伐に入ってきているので、取り締まってくれと森林局に申し出た。ところが、森林局の人間がやってきて、「ここはいい森だ」と森のよさに気づき、国立公園に登録してしまった。訴えを起こした村人も森林使えなくなってしまった、という話です。
これも今日の中心的な話題なのですが、貧困と焼畑の悪循環という定説が広く流布している。「貧しい人が、貧しさゆえに森を破壊する・・。」「焼畑はけしかん」100年前から今日までこの定説は続いている。私達はどうすればいいのだろうか。「もっと調査を進めて貧困は実は森林破壊に関係ないのだということを詳細に調べていけばいいのかどうか。」問題が反復する、というのは(1)調査が足りないのだろうか、(2)調査はあるのだが無視されているか、そういうことも考えなければいけないと考えるようになりました。
中国の農村部で農薬が大きな被害を生じさせているそうですが、その調査結果を公にすると困る人がいる、また出しても無視される・消されるため、調査結果は政策には反映されないのです。つまり、調査自体は存在するにもかかわらず、現実の政策には反映されないのです。よって、必ずしも調査を進めればいいというものではなく、調査は存在するけれど、それが無視されているといった場合もある。
フレーミングとはどういうことか、ということを次の例を用いて説明したいと思います。
2.少年とマハティール
1989年、イギリスの少年がマレーシアの首相マハティールにこんな手紙を書いています。
「僕は10歳で大きくなったら、熱帯雨林の動物について勉強したいと思っています。しかしあなたが木材業者を今のままほうっておけば木は一本もなくなってしまいます。何100万という動物も死んでしまいます。一握りの金持ちが、何100万ポンドを得るためにこんなことをしていいのでしょうか。僕はとても醜いことだと思います。」
これに対してマハティールは返事は次のようなものでした。
「私達の森から木材を切り出していることを辱めようとしている大人達にあなたが利用されていることのほうが、醜いことです。あなたを操っている大人達に教えてあげましょう。問題は一握りの金持ちが何100万ポンド稼いでいるということではありません。木を一本切り出すことは少なくとも10人の貧しい人々に仕事をもたらし、おそらく彼らの妻10人とその子供達30人を支えていることになります。加えて金持ちは40%の所得税を払っています。この金持ちがいなければ、政府は税金を集めることができないばかりでなく、伐採も行なわれなくなり、多数の人々が職を失うことになるでしょう。木材産業はこのように多くのマレーシア人を助けています。あなたに熱帯動物の勉強をさせるために、彼らを貧しいままにしておくべきでしょうか。あなたの研究のほうが貧しい人々の空腹を満たすより重要なのでしょうか。あなたが動物の勉強をするからといって私達は100万ポンドの富みを水の泡にすべきなのでしょうか。」
そしてマハティールは植民地統治の時代にイギリスによって大量伐採が行なわれたこと、代わりに植えられたゴムプランテーションの収益の大部分はイギリスが牛耳ったこと、国際社会により木材価格は低く抑えられ伐採範囲の拡大につながっていること、希少な動植物は国立公園によって守られていることなどを述べます。そして、最後に次のように結論しています。
「あなたを利用している大人達にもっと事実を学べといってもらいたい。国をどう運営すべきかは、イギリス人ではなく私達が一番良く知っています。イギリス人こそ熱帯動物を勉強するまえにいなかの住民を追い出して二次林を育て狼や熊で森をいっぱいにするのがいいでしょう。そうすれば動物の勉強もできるでしょうから。」という皮肉たっぷりの返事を書いたそうです。
2人の主張のどちらが正しいかを科学的にいうことはできません。私が言いたいのは、少年とマハティールの間で対話が成り立っていないということです。少年の一つの論点は、マレーシア国内の格差を問題にしているけれども、マハティールはこの点に一切触れてなくて、先進国と途上国の富の格差問題、人口問題に焦点を差し替えて議論を展開しています。両者の論点はかみ合っていないのです。枠のつけ方=フレーミングのつけ方が異なっているのです。状況のあいまいさ・複雑さが、問題の枠組みが異なることを可能にしているのです。僕が今日問題にしたいのは、何を中心的な問題として位置付けるか、という問題枠のつけ方=フレーミングの話です。
この、「枠組みのつけ方」の確認の手助けになる研究をこれから紹介しようと思います。
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