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フレーミングの政治学−何がなぜ問題になるのか?−

今日話す内容は10月くらいに出版される予定の「環境学の技法」(東京大学出版会)にのっています。詳しくは、そちらをご覧ください。


6月1日 佐藤 仁

0.イントロダクション

  様々な自然の物理現象の中で、どうして、ごく一部の変化が環境問題と呼ばれて、特権的な地位を見解を得られるのか、科学的な定説が得られなくても、定説として流布するのはどうしてか?問題というのは人間が決めているものである、ではどういった人為的メカニズムが働き、ある現象が問題化され、ある現象が問題化されないのか。そういうことを考えてみたいと思います。今日は、具体的な例として森林の例を多く使いますが、私個人がタイをフィールドにしているためです。今日の話は、森林に限ったことではなく、様々な問題に応用可能だと思っています。


佐藤仁

1.「問題」が反復するとき

 様々な問題が反復して起こることがある。例えば、貧困だとか、不平等だとかいう問題は、昔から問題だ問題だと、社会で騒がれているにもかかわらず、望まれない問題が反復するということは、その問題が果たして正しい設定をされているのか、ということ自体に問題があることがある。つまり、問題の設定自体が間違っている可能性があるのです。

 例えば、タイでは森林面積は減少する一方ですが、森林局の中身を見てみると予算やスタッフは増加している。森林局が管理する森林面積は半分になっているのに、森林局へかかる費用などは増えている。これは何故なのか。これまではずっと「(森林局への)援助がもっともっと必要だ」と国際環境協力の中で考えられてきていました。果たしてそれは本当なのでしょうか。文化人類学者の調査では、農民にしかるべきインセンティブを与えれば適正に管理できる、という多くの結論が得られている。しかし、政策の実態は、こういった研究が多く出ているにもかかわらず、トップダウン的なものが多く出されているのです。
 その例を一つ挙げます。1997年、タイでこんなことがありました。ある村人が、自分が住んでいる森によそ者が盗伐に入ってきているので、取り締まってくれと森林局に申し出た。ところが、森林局の人間がやってきて、「ここはいい森だ」と森のよさに気づき、国立公園に登録してしまった。訴えを起こした村人も森林使えなくなってしまった、という話です。

 これも今日の中心的な話題なのですが、貧困と焼畑の悪循環という定説が広く流布している。「貧しい人が、貧しさゆえに森を破壊する・・。」「焼畑はけしかん」100年前から今日までこの定説は続いている。私達はどうすればいいのだろうか。「もっと調査を進めて貧困は実は森林破壊に関係ないのだということを詳細に調べていけばいいのかどうか。」問題が反復する、というのは(1)調査が足りないのだろうか、(2)調査はあるのだが無視されているか、そういうことも考えなければいけないと考えるようになりました。

 中国の農村部で農薬が大きな被害を生じさせているそうですが、その調査結果を公にすると困る人がいる、また出しても無視される・消されるため、調査結果は政策には反映されないのです。つまり、調査自体は存在するにもかかわらず、現実の政策には反映されないのです。よって、必ずしも調査を進めればいいというものではなく、調査は存在するけれど、それが無視されているといった場合もある。

 フレーミングとはどういうことか、ということを次の例を用いて説明したいと思います。


2.少年とマハティール

 1989年、イギリスの少年がマレーシアの首相マハティールにこんな手紙を書いています。
 「僕は10歳で大きくなったら、熱帯雨林の動物について勉強したいと思っています。しかしあなたが木材業者を今のままほうっておけば木は一本もなくなってしまいます。何100万という動物も死んでしまいます。一握りの金持ちが、何100万ポンドを得るためにこんなことをしていいのでしょうか。僕はとても醜いことだと思います。」

 これに対してマハティールは返事は次のようなものでした。

 「私達の森から木材を切り出していることを辱めようとしている大人達にあなたが利用されていることのほうが、醜いことです。あなたを操っている大人達に教えてあげましょう。問題は一握りの金持ちが何100万ポンド稼いでいるということではありません。木を一本切り出すことは少なくとも10人の貧しい人々に仕事をもたらし、おそらく彼らの妻10人とその子供達30人を支えていることになります。加えて金持ちは40%の所得税を払っています。この金持ちがいなければ、政府は税金を集めることができないばかりでなく、伐採も行なわれなくなり、多数の人々が職を失うことになるでしょう。木材産業はこのように多くのマレーシア人を助けています。あなたに熱帯動物の勉強をさせるために、彼らを貧しいままにしておくべきでしょうか。あなたの研究のほうが貧しい人々の空腹を満たすより重要なのでしょうか。あなたが動物の勉強をするからといって私達は100万ポンドの富みを水の泡にすべきなのでしょうか。」

 そしてマハティールは植民地統治の時代にイギリスによって大量伐採が行なわれたこと、代わりに植えられたゴムプランテーションの収益の大部分はイギリスが牛耳ったこと、国際社会により木材価格は低く抑えられ伐採範囲の拡大につながっていること、希少な動植物は国立公園によって守られていることなどを述べます。そして、最後に次のように結論しています。
 「あなたを利用している大人達にもっと事実を学べといってもらいたい。国をどう運営すべきかは、イギリス人ではなく私達が一番良く知っています。イギリス人こそ熱帯動物を勉強するまえにいなかの住民を追い出して二次林を育て狼や熊で森をいっぱいにするのがいいでしょう。そうすれば動物の勉強もできるでしょうから。」という皮肉たっぷりの返事を書いたそうです。

 2人の主張のどちらが正しいかを科学的にいうことはできません。私が言いたいのは、少年とマハティールの間で対話が成り立っていないということです。少年の一つの論点は、マレーシア国内の格差を問題にしているけれども、マハティールはこの点に一切触れてなくて、先進国と途上国の富の格差問題、人口問題に焦点を差し替えて議論を展開しています。両者の論点はかみ合っていないのです。枠のつけ方=フレーミングのつけ方が異なっているのです。状況のあいまいさ・複雑さが、問題の枠組みが異なることを可能にしているのです。僕が今日問題にしたいのは、何を中心的な問題として位置付けるか、という問題枠のつけ方=フレーミングの話です。

 この、「枠組みのつけ方」の確認の手助けになる研究をこれから紹介しようと思います。


3.フレーミングを問い直した研究

(1)ヒマラヤの不確実性

 1985年の有名な問題です。
 ヒマラヤで非常に深刻な森林伐採の問題と、洪水の問題があげられていました。森林伐採の程度のひどさを測る要素として、 1.「村人がどの程度まきを使っているか」2.「森林はどの速度で再生しているか」その2つを元にこれまで多くの人がヒマラヤの森林現象について研究してきました。

 トンプソンらの研究で以下のことが明らかになりました。1人あたりの薪の消費量の調査では、もっとも保守的な数字と、もっとも高い数字との間に67倍もの格差が生まれました。持続可能な最高収穫量の推定については150倍もの誤差がみられた。トンプソンの結論としては、自分達がこれまでと同じ研究をしてもあまり意味がないのではないだろうか、ということです。これまでは、状況を特徴付けるファクトは何かということに着目されてきたが、そうではなくて、なぜこれほど大きな誤差が生じるのかという誤差の広がりが何故起こるか、ということに彼らは着目した。そうすると見えてくるものが色々ありました。ヒマラヤの環境問題は世界的な注目を集めています。それをとりまくNGOや国際機関や援助団体など、それぞれが好む問題・数字があります。トンプソンはヒマラヤの環境問題に携わっている人達が事実にどうあってほしいと思っているかを調査しました。

 一つ、具体的な例をあげますと、村人がどのくらい森林を使っているかということの調べ方は多くありますが、時間がない場合は直接村人に聞くまたは見るという手法を使うことになります。「あなたはどのくらい薪を使っていますか」と聞かれた村人は、「なぜこの人は薪の使用量を自分に聞くのか」ということを当然考えるわけですね。本当は薪をとることが違法とされている場所では、村人は非常に少なく申告するかもしれないわけです。従って、村人の答えは、実際に彼が使っている薪の量を反映していないかもしれません。しかし、現実とかけ離れていたとしても、その答えは彼のおかれた立場を反映した「1つのデータ」になるのではないか。

 トンプソンがだした見解はおもしろいものでした。
 「もし、森林破壊というものが、言われているほど深刻ではないとしたら、森林破壊が深刻だと印象付けようとしている人々は一体どういう人たちなのか?」環境問題を解決しようと、ヒマラヤに乗り込もう助けようとしている人々(援護団体など)も問題の一部として浮上してくるいうことです。

 問題があって、それに解決策を考えるというのではなく、解決策が先に目的としてあり、その解決策を実行するために問題が作られているということも考えられるでしょう。
 解決からも問題を探すベクトル(矢印)があるということです。


佐藤仁

(2)リーチらによる「ギニアの森林史」

 果たして、衛生写真に写っているまだらな森林は、村人達によって使われてしまった姿なのか、どうか。
 定説は、人口増加によって、村人が焼畑地域を拡大し、森林面積が減少しているというものです。しかし、現地での調査の結果、実はこの地域にはもともと森はなくて、村人達が森を作ってきたのだということが論証されました。砂嵐から家を守るため、家畜の排泄物や生活廃棄物が土を豊かにする、といった様々な理由により、人間居住地の周りに森が生じるということが証明されたのです。人がいるところは森がなくなるということを信じていた人々にとっては非常に逆説的な学説だったわけです。フェアヘッドとリーチは、それをリニアの役人に突きつけて、村人が森を作ってきたなら、政府ではなく村人に森林の管理を任せるのが合理的ではないか、と主張しました。しかし、役人は昔の写真に文句をつけて結局相手にしなかったそうです。

 私が今日特に問題としているのは、仮にフェアヘッドとリーチの議論が正しくて一般に私達が信じている説が間違っているとしたら、なぜ事実と違う定説が流布するのかということです。フェアヘッドとリーチによると、間違った定説によって利益を得ている・生活を成り立たされている人がたくさん存在しているということです。例えば政府にとっては、様々な理由を使って村人が用いている資源をとりあげることがある。政府にとっては、その行為を正当化する定説が必要になってくるのです。貧しく無知な村人に代わって代わりに管理しなければならない、と主張するわけです。村役人も、中には善良な人もいるが、短期間で交代してしまい、事情をあまりしらないこともあります。役人は村人にとっては、小学校やトイレや保健所をもらえるので、開発プログラムは歓迎されるものであり、定説を受け入れることはメリットになるかもしれません。このように森林をとりまく様々な人々が間違った定説を受け入れることによってメリットを産み、再生産しているということが論文にかかれました。


(3)タイの森林破壊

 博士論文を書いたときに、カレン族の村に1年くらい住み込んだ経験があります。
 タイのカレン族という民族は、これまで森を破壊する悪者として槍玉にあげられてきた民族です。
 植民地時代には、彼らは野蛮だから森を切り開いているという語られ方がなされていて、現在は、彼らは貧乏でやむを得ず森林破壊を行っているという語られ方がなされています。ここで注意したいのは、言われていることは、一貫して「カレン族が森を破壊している」ということです。
 森林問題は、私は土地問題ではないかと考えています。
 援助する側も、「森が無いところに、樹を植えましょう」と、きれいごととして、話を進めたいわけです。だれが所有しているのかなどということはふれたくないのです。
 木が植わっているところ、既に豊かな森であるところは誰が管理してきたのか、ということを問うべきなのですが、それは問われないのです。

 私達は森林の話をする時、森林そのものの持続性に注目するわけですが、もう1つ森林局の持続性にも注目しなければなりません。森林局の持続のために、森林局の管理する森林地域を増やすこと、あるいは仕事(例えば山火事を消すなど)を増やすことが必要となってきますよね。山火事は森林局の存在の正当化に非常によく使われています。(私のうがった見方かもしれませんが・・)

 貧困と環境破壊に関する定説について、ご紹介したいと思います。外務省が発行している「わが国の政府開発援助」という有名な本があります。第3章に、貧困と環境破壊の関係について、示唆に富む指摘があります。

 貧困ゆえの過放牧、非持続的な焼畑、過剰な薪の採取による環境破壊とかかれています。先進国では広く信じられていることです。しかし、これは本当にそうなのでしょうか。フィールドワークで現地へ行った人なら疑問をもつと思います。貧困ならば、過放牧するほど家畜を飼うことができるでしょうか、非持続的な方法とありますが、もともと持続的な焼畑方法を政府が禁止したからではないでしょうか。過剰な薪の採取といいますが、本当に貧困ならば、過剰に集めるまでの労働力があるでしょうか。一見、スマートに見えるロジックには、このように簡単な穴が存在しているのです。何も貧困が問題だといっているのではありません。こういうロジックをだすことで、政府のやっていることなどを見えにくくしていることに、問題があるのではないか、ということです。


フレーミングの基本パターン

・問題のはじまり: 問題の時間的な範囲

 いつから問題が始まったかは明らかにされていない場合が多いのでフレームの差が生じやすくなります。cf)マハティールは問題の始まりはそもそも植民地時代からだと述べている。

・スケール: 問題の空間的な範囲

 スケールの大小によって、見えるようになるものと見えなくなるものがあります。グローバルな視点とローカルな視点から見るのでは、見えてくるものが違うということです。

・技術的解決手段: 解決のための選択肢の範囲

 例)森林消失面積の多様な推計値

 1997年、インドネシアで大規模な森林火災があったときの森林消失面積のデータはこれまでで最も精密になされたとされています。結果を見てわかるように、推計時期、推計対象はかなり重なっているにも関わらず、森林消失面積は大きく異なる推計値が出されたのです。
 このことから、技術が発達して、調査の精密度が高まるからといって、例えば森林消失面積が明らかにされるわけではないのです。この背景の詳しいことは知りませんが、「森林をどう定義するか」「何を持って消失したとするか、」が機関によって異なるということが影響していると思います。

 様々な環境問題が起こったとき、原因は何かと皆さんは問うでしょう。この問いは非常に中立的に見えますが、場合によっては非常にポリティカルな問題になります。
 「真の原因は何か」ではなく「誰が被害者になり誰が加害者であり誰が解決者か」ということを強調したいです。

森林焼失面積の多様な推計値



フレーミングの浸透力を決める要因

 ・論点のシンプルさ
 ・エリートを含む社会の大多数に対して、行動様式の大幅な変更を迫らない
 ・すでに支配的な価値観に合致する
 ・吟味されにくく、反証もしにくい

 なぜ、このフレーミングの問題に注意しなければいけないかというと、注意していないと気づかないからです。今述べたような要因が存在する場合、フレーミングはかなり気づかれず、存在しつづけることになります。


フレーム分析の意義

 私達は様々なことに注意を払っていると思い込んでいる場合が多いですが、人間がその時々に注目できることは限られていると考えています。そして、どのようにしてある問題のある側面が注目されるようになり、別の側面が注目されなくなるのだろうか、ということに敏感になろうではないか、と考えています。このことで、例えば、これまで問題化されてこなかった「解決者」も問題の1部になるのです。また、2次資料の解釈に敏感になるという意義もあります。みなさんが使う時間の大部分となるのは、人が作ったデータの処理であって、自分でデータを作ることではありません。従って、人がした調査をどう読むか・・・調査する力や方法をもう少し身につけなくてはならないのではないでしょうか。例えば論文を書く際には先行研究のサーベイは必ずすることになるのですが、その過程で、問題の設定を間違ってしまう可能性があります。したがって、調査を調査する力が必要となるのです。

結局、フレーミングを整理するとどうなるかを少々強引に図をしてみました

自然の領域と人間の領域があります。
 自然環境(実際の物理的な環境)>>認識される環境(匂い・うるさい)>知覚される環境>行動・知識に結びつく環境
 知覚は個人差はあまりないけれど、認識は人によって、格差がある。多くの複雑の環境問題は認識の部分が、その人の立場や、違い関係によって全く異なる。共通して認識されている環境が少ないという問題があります。


認識と実在



結論

 私は、以下のことを考えることが重要だと考えています。

・対応が不十分なのか、やり方が的外れなのか。

 国際環境協力の権威ある組織の中では、「自分達のやり方は間違っていないが、まだ不十分なのだ」と考えています。「不十分」とすることで誰が得をしているのでしょうか、ぜひ考えてほしいのです。

・この問題はどう解けるかだけではなく、なぜこの問題を取り上げることになったのか。

 もっと調査すればわかる、という常識を問い直す必要があります。

・問いの出し方は、どのような方向性を秘め、「答え」の幅をどう規定しているのか。

環境問題を考える上で、フレーミングから問題視してほしいと思います。






質疑応答


Question

 新領域創成学科は何のために・どういう目的で作られた学科なんですか?


Answer

 東京大学の中で、本郷は専門研究・教育の場所として位置付けられています。駒場は教養教育とインタディシプリナリー(学際)研究の場所です。
 柏キャンパスは学融合、つまり、まだ学問の形はとっていないが、おもしろそうなことが眠っていそうな題材を学問の形にして本郷に受け渡す役割をもっています(理念の上では)。これまでの○○学というものにきちんとおさまらないものを、一緒に考えてみよう、というところです。




Question

 教養学部でできそうなものを、わざわざ柏に作るのは、誰かの損得が関わっているのでは。


Answer

 大きな実験室を必要としている人にとっては、柏がいいんでしょうね。
 私個人としては柏の方が遠いし、嫌なんですけれども。(笑)




Question

 ある問題を最終的に解決しようとする時、1つのフレームで考えるのか、様々なフレームで考えるのか、どっちですか。


Answer

 全てのフレーム同時は無理でしょうね.一つのフレームを取るわけだけれども、それが様々な観点から見て適正な選択かどうかというところが問題でしょう。論文審査でいうならば自分の立つ論点がさまざまな批判にとって防衛可能かどうか、です。
 選ばれたフレームは、他の取りうるフレームの中で選ばれたのか、ときかれたときにしっかり答えられるかどうか、ですね。




Question

 最終的には妥協が必要ということですか。


Answer

最終的には中立的なフレームということは存在しないので、突き詰めていくと自分の立場を貫くということになりますね。妥協というよりは、正当化の問題ではないかと思います。




Question

 では、実際にフレームを作る人は社会的に強い位置にある人エリートの立場からのフレームの取り方が多いわけですね。


Answer

 最終的に採用されなくても、様々なフレームを提示すること自体に意義はあると思います。  今日お話したことは初めにも前置きした通り、私も答えを持っているわけではなく、私自身日々考えている悩んでいる問題です。




Question

 本題とはそれるとは思うのですが、タイの調査はどれくらいの時間?


Answer

調査に携わった時期は1年から2年、村にかなり長く住んでいたのはだいたい1年ですね。
 丸山先生も論文の審査員の一人でいらしたのですが、今日の話を中心にした本を出版予定です。
 貧困が森林破壊起こしているという定説がどれくらい支持できるかどうかについて、どういう資源利用をされているかなど、も載せます。
 私の研究の要約は、とりあえずは、岩波書店から出ている「開発と文化」シリーズ第5巻「地球の環境と開発」に、「豊かな森と貧しい人々」で書いています。
 もっと詳しいこと知りたい人は10月頃出版予定の「稀少資源の政治学」(東京大学出版会)を見てください。




Question

 ストーンのマトリクスについて媒介的要因と、意図的要因は区別する必要があるのですか?


Answer

 強調点の違いです。本当の原因はなんであるか、ということよりも責任の配分が争われているのです。科学的な因果追及の点では、媒介的要因と意図的要因の区別は不要ですが、責任配分の点からは区別することに意味が出てきます。
 ただし、もともと政治分析に用いられたマトリックスを応用したものですから、強引なところもまだある。今後、自分のフレーミングにこういう考え方も取り入れていきたいと思っている。



去年の佐藤先生の講義録
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