環境の世紀VII  [HOME] > [講義録] > 6/9 「何が、なぜ調査の対象になるのか─地球環境問題の同定とフレーミング」[1]

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何が、なぜ調査の対象になるのか
─地球環境問題の同定とフレーミング

6月9日 佐藤仁


1 講義の背景と狙い

 私の講義のキーワードは「不確実性」です。環境問題における「不確実性」をどう考えるのか説明していきます。「何がなぜ調査の対象になるのか」「何がなぜ環境問題になり、なぜ一部のものが環境問題にならないのか」についてお話しようと思います。

 私自身はタイをフィールドにして熱帯林の保全と利用を調べ、環境と開発の関係について研究しています。その中で気になったことは、熱帯林の破壊は「貧しさによる焼畑民の視野の短期化」が原因になっているという、基本的には同じ見かたが、100年も前から続いているということです。

 そこで、問題の立て方がそもそも間違えていたのではないかという疑問が生じます。調査をするたびに「もっと調査が必要だ」ということが言われるが、間違った問題に正しく答えようとしていたのではないか?問題の設定自体を疑ってみるという柔軟な姿勢が必要だと思うようになったわけです。

 これから私が話しをすることと、大学での教育との関係について少し見てみます。大学で方法論について勉強するとき、一次資料の集め方・分析の仕方を勉強することになります。しかし実は、研究活動の大部分は人の書いたものを読むことに占められることになります。しかし、私達は多くを二次資料によっているわりには、人の書いた二次資料をどう読み解くのかということについてあまり訓練を受けていません。同じことに対して矛盾することを主張する2つの二次資料があったときそれをどう理解するのか?調査を調査する力が必要であると最近考えています。

 開発とか環境というのは、途上国に対して何ができるのかという風に問題を立ててしまいがちです。しかしそうすると問題の立て方がスキップされてしまい、正しい答えを求めるあまり、自分が正しい問題に対してまともに向かっているのかということがバイパスされてしまう可能性があるわけですわけです。

 今日は1歩離れて、正しい問いを設定するということはどういうことなのかというのを検討して、みなさんに投げかけてみたいと思います。

佐藤仁



2 環境問題における不確実性

 「不確実性というのは、はたして確実性の不在なのか?」─そうではないのでないか、ということが私の話になります。

途上国の不確実性を生み出す要因についてまとめてみます。

  • 比較可能データの不足(一貫した方法で、ある一定の期間はかられたデータがない)
  • 人的要因抽出の困難(自然現象と人間が関与して引き起こした現象との区別が困難)
  • 対応を要するかどうかをめぐる論争(程度の激しい問題に対して、限られた予算の中で対応すべきか)

 このように環境問題は何が問題で、そもそも対応すべきかについては闇のような不確実性がある場合が多いと言えます。こうした不確実性があるにも関らず、なぜ特定の現象が「問題」として浮上してくるのか、問題の捉え方についても様々な捉え方があるはずなのに、どうして特定の捉え方が流布するのでしょうか。

 私達の知的活動は、複雑な事実の束から、ある「事実」を切り取ったり、切り取った事実から全体を推測することになります。その中で何かが重視されたり、何かが無視されたりすることが往々にしてあります。

 問題は、誰かが何かしらの方法で定義しています。何が問題になって何が問題になっていないかという事実が、環境問題に社会科学が切り込む入り口があるのではないかと、私は思っています。

 特に曖昧さや不確実性が確実性の不在ではなく、積極的に利用されることが多いと考えています。選択的強調や単純化される過程で曖昧さが利用されることが多いのです。

 曖昧さや不確実性というのは学術的な研究の対象にはなりにくく、切られてしまうわけです。しかし、環境問題や開発の問題の研究する場合には切ってしまった曖昧さの中に「ミソ」が潜んでいるのではないかというのが私の問いかけです。

 レトリックの話ばかりになってしまったので、具体的な話をしてみます。

少年とマハティールの「対話」

 1987年に10歳になったイギリス人の少年が、マレーシアのマハティールという首相に手紙を書きました。

 僕は10歳で大きくなったら、熱帯雨林の動物について勉強したいと思っています。しかしあなたが木材業者を今のままほうっておけば木は一本もなくなってしまいます。何100万という動物も死んでしまいます。一握りの金持ちが、何100万ポンドを得るためにこんなことをしていいのでしょうか。僕はとても醜いことだと思います。

 マハティールの返事は次のようなものでした。

 私達の森から木材を切り出していることを辱めようとしている大人達にあなたが利用されていることのほうが、醜いことです。あなたを操っている大人達に教えてあげましょう。問題は一握りの金持ちが何100万ポンド稼いでいることではありません。木を一本切り出すことは少なくとも10人の貧しい人々に仕事をもたらし、おそらく彼らの妻10人とその子供達30人を支えていることになります。加えて金持ちは40%の所得税を払っています。この金持ちがいなければ、政府は税金を集めることができないばかりでなく、伐採も行なわれなくなり、多数の人々が職を失うことになるでしょう。木材産業はこのように多くのマレーシア人を助けています。あなたに熱帯動物の勉強をさせるために、彼らを貧しいままにしておくべきでしょうか。あなたの研究のほうが貧しい人々の空腹を満たすより重要なのでしょうか。あなたが動物の勉強をするからといって私達は100万ポンドの富みを水の泡にすべきなのでしょうか。

 そしてマハティールは植民地統治の時代にイギリスによって大量伐採が行なわれたこと、代わりに植えられたゴムプランテーションの収益の大部分はイギリスが牛耳ったこと、国際社会により木材価格は低く抑えられ伐採範囲の拡大につながっていること、希少な動植物は国立公園によって守られていることを述べます。最後に次のように結論しています。

 あなたを利用している大人達にもっと事実を学べといってもらいたい。国をどう運営すべきかは、イギリス人ではなく私達が一番良く知っています。イギリス人こそ熱帯動物を勉強するまえにいなかの住民を追い出して二次林を育て狼や熊で森をいっぱいにするのがいいでしょう。そうすれば動物の勉強もできるでしょうから。

 こういうやりとりです。私がこの2つを紹介したのは、どちらの見方が正しいのかということではなく、この2人の間で対話が成立していないということです。つまりお互いの問いに答えていないということです。

 少年の論点の一つというのはマレーシア国内の富の不平等なわけですが、マハティールはこの点に一切触れていません。彼は、先進国と途上国の間の格差問題、あるいは貧困問題のほうに話をすり変えていっているわけです。

 この話のインプリケーションは、何を中心的な論点とするか、中心的な問題としてフレームするかという点で両者がずれていることです。どちらがより正しいということもいえません。

 しかしフレームのしかた・光のあてかた・解釈のしかたというものが、意識的なものであれ無意識的なものであれ解決をするにあたって何が重要であり何が重要でないかということについて私達の視野を仕切ってしまっています。そういう点においてフレーミングというのが重要なのではないかという一つの例として話をしました。




3 フレーミングを転倒させた代表的研究

3−1 トンプソンらによる「ヒマラヤの不確実性」

 ヒマラヤの環境問題が深刻であるということで、色々な研究者が色々なことを言っています。国連のUNEPの依頼で、トンプソンは何が問題なのかを調べることになりました。 当時ヒマラヤへのアプローチというのは、ヒマラヤの農民がどれくらいの「薪を消費しているか」と、その地域の「森林の再生率」はどうかという2つの変数を量って比べるものでした。

 トンプソンらが調べたところによると、1人あたりの薪の消費量の、もっとも保守的な数字と、もっとも高い数字との間に67倍の格差がありました。

 ここでトンプソンらが徹底して厳密な調査をしてもあまり意味がないのではないのかということになったわけです。自分達が調査した結果も、67倍のちらばりの中に入ってしまうだけになってしまうからです。

 ここでアプローチを転換し、どうして67倍もの誤差が生まれたのかを考えます。誤差を誤差として捨ててしまうのではなくて、実は誤差というのがデータなのではないか、誤差を支えている社会的、制度的仕組みとうのがあるのではないかと考えます。

 そうすると見えてくるものが色々ありました。ヒマラヤの環境問題は世界的な注目を集めています。それをとりまくNGOや国際機関や援助団体など、それぞれが好む問題・数字があります。トンプソンはヒマラヤの環境問題に携わっている人達が事実にどうあってほしいと思っているかを調査しました。

 例えば、ヒマラヤの環境問題に被害を受けているネパールは援助に依存しているので、問題を大きくしたがります。政府には援助を引き出せるようなインセンティブがあります

 私達が普通「科学」と呼んでいる、事実は何かということについて細かく細かくチューニングしていくという分析的なアプローチが役に立たないのではないかということをトンプソンは論文の中で言っているわけです。

3−2 リーチらによる「ギニアの森林史の読み直し」

 次はアフリカの景観の読み間違いという事例についてです。現存する森林は果たしては村人によって切られて残った森林なのか、そうではなくて村人が造ってきたものなのかということで論争がありました。 もっとも常識的な景観の読み方というのは、近代化によって人口が増え村人の原始的な農法によって森がどんどん切られ畑に変わり、森が無くなってしまったというものです。

 それに対してリーチは、もともと森はなくて、森は村人達が造ったものだという新しい景観の読み方を提示ました。

 むかしから途上国の農民とういのは「高貴な野蛮人」といわれてきました。彼らは野蛮だけど、原始的なので環境にはやさしい。しかし近代化の波が押し寄せ、市場経済化し、人口も増えその過程において、森林を破壊してきた。そういうことが私達の間に常識として流布しているわけです。

 リーチらは、歴史的な資料・宣教師や旅行者の記録・古い地図・古い航空写真・老人へのインタヴューを総合して、森は村人が造ったものだと実証しました。

 造った理由は、村人の生活廃棄物が土を豊かにした、儀式のために森を造った、暴風林のために森を造った、家畜の糞で森が豊かになったと様々な理由があります。とにかく村人の視点でアフリカの景観を読みなおしたということです。

 これは知的なおもしろさがあるという話ではありません。「村人に森林を管理する能力はないから、政府が国立公園を作って管理しよう」という森林政策が多くの途上国で行なわれています。

 しかしリーチが実証したように、政府が村人から森を取り上げるというロジックはおかしくなるわけです。こういった調査といったのは場合によってはラディカルな政策的なインプリケーションをもちうるわけです。

 村人が森をどう思っているかとうことは、森林破壊の原因の議論にはのっていませんでした。大学の先生や国際機関が議論をしているうちにイメージとしてサーキュレートして安定化したということになります。この研究は村人の視点からすると全く違う歴史が描けるということを示しました。

3−3 タイにおける森林破壊の犯人探し

 次は私の研究について述べます。

 貧しい人が貧しいゆえに森を破壊しているということは昔から言われていますが、貧しい人はどんな人で、彼らはどのように森林を使っているのかというデータはありません。みんなが、貧困が問題だと言っているのかにも関らず、貧困がどのくらい問題かということについてはデータがない。この「データがないということも実は一つのデータではないか」ということも今日の話のミソになります。

 私の調査は貧しいとされている人達が具体的にどのように森林利用をしているかというのを量ろうとしたものです。

 昔は、山岳民は野蛮人という見方があるという話をしました。最近は、山岳民に対して野蛮人という言い方はされなくなりました。そのかわり、「やむをえず森林を破壊してしまう」という言い方に変わったわけです。

 言い方は変わったわけですけども、話のポイントは変わっていなくて「農民を非難している」ということについては100年前も今も変わっていないわけです。ただやむを得ず森林を破壊しているという表現が私達の共感を呼ぶわけです。

 こういう風にフレームをすると貧しい人をなんとかしようという点に周りの視点がフォーカスされてしまいます。政府の開発しているダム・ゴルフ場・商業伐採・プランテーションのために伐採した土地は、貧しい人が破壊しているのと比べてどうなのかといったような視点が陰になってしまいます。

 熱帯林問題というはしばしば環境問題として定義されています。しかし私は、誰が土地をコントロールする権利を持つのか、という土地問題だと考えています。これが土地問題となると、土地の不平等の問題や強制移住の問題などドロドロした政治の問題となります。しかしこれを環境問題とすると、生態系の保全ということについてフォーカスされて、土地から追い出された人々の生活など、政治的な部分が環境問題というフレームによって隠されてしまうのです。

 熱帯林問題というのを、環境問題か土地問題かカテゴライズするというのは知的なお遊びではなくて深刻な政治的インプリケーションを持っていると私は言いたいわけです。

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