1、環境を守るとはどういうことか
副題として、「環境と経済の対立を超えて」とつけました。「環境」や「環境を守る」ことの定義について議論をしないと、ムードに流されてしまう恐れがあります。世の中の著書などを見ても、「環境」の定義をしているものが少ない。そのせいで、ある種の胡散臭さを感じている人も多いのではないかと思う。また、千葉大学の学生に聞いても、「環境」の定義はまちまちです。
「自然を守ること」だと言う人がいます。それでは、「人間がいないほうがいいのか」と聞くとそうだと言います。それでは広がりが無い。環境を守るなら自殺しないといけないということになります。バランスを取らなければなりません。
「縄文時代がよかった。」と言う人もいます。しかしじゃあ今の政策にどう反映させていくのかと考えると、使えません。どういう風に次の一歩を踏み出すかの議論をしないといけません。それが今の政策・運動につながる実践的な環境政策論となるからです。
1−1 環境問題とは
○人の活動に起因する
○人の活動に悪影響を及ぼす
人の活動自体は環境問題ではありません。人の活動が一つの指標となっているのです。これには異論がある人がいます。「人の活動に悪影響を与える」という定義は人間中心主義ではないかと。動物も入れるべきという人もいます。しかし、動物が人の言語をしゃべるわけではありません。したがって定義としては人の活動に悪影響を与えるというのに含めることができるでしょう。人がいなくなったところで誰が評価するのでしょう。神様でしょうか。
さて、上の2つの定義では、泥棒、親父狩りも同じになるので、それだけでは足りません。
○物理的自然的環境が介在する
という定義が必要です。
以上をまとめると、環境問題とは、ある人の活動が、物理的自然的環境を媒介として、他の人の活動に悪影響を及ぼす問題である、と言えます。
しかし、「環境」の定義に環境という言葉を使うのは良くありません。「物理的自然的環境」、あるいは、「環境」とは何を意味するのでしょうか。
まず、物理的自然的存在を介しているが通常環境問題とは言えない例を見ていきましょう。
●郊外の幹線道路沿いに量販店が進出したため中心市街地が衰退している。
この場合、量販店は物理的自然的存在ではありますが、自然的環境とは言えません。
●鉄道会社の経営が悪化して鉄道路線が廃止された結果、沿線の交通の便が悪化した。
これも環境問題ではありません。
●ある悪意を持って人が養殖場の魚に毒物を吸収させた結果、魚を食べた人が病気になった。
こういった食品汚染公害はある意味環境問題との境界だと言えます。魚を食べた結果、病気になったという場合、管理経営の問題がひとつにありますが、人の手が全てを管理しているわけではないからです。これが「設計」という概念につながります。
以上を一般化した形で言うと、量販店、鉄道路線、養殖場の魚は、物理的自然的存在であっても、人の手によって設計・管理されている点で、大気環境、水環境、生態系といった物理的自然的存在と区別しているということになります。
すなわち、「環境」とは、「人をとりまく物理的自然的存在であって、その挙動について人間が設計していないもの」と定義できるでしょう。
1−2 人間の経済と環境
今までの話を模式的に言うと、次のようになります。
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(図1)
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人が設計したものとして機能している限り、「人工物(設計によって作られているもの=人を取りまく物理的自然的存在)」の範疇となります。しかし、ひとたび人工物となっても、ずっと留まっているわけではありません。腐敗して機能しなくなると人工物を内包する形で広がっている、「人間の設計していないもの」の範疇に入ります。
「人」と「人工物」、これを作り出しているのが「人間の経済」です。一方、「人間の設計していないもの」を作り出しているのが「環境」であると言えます。
1−3 環境を守ることの目的
1-3-1 1970年代――健康で文化的な生活の確保
では、「環境を守る」ことの目的は何でしょうか。これは1970年代に、認められたものですが、一つは、
環境問題によって人が死なないようになること、健康を損なわないようにすること。
(個人の、健康で文化的な生活の確保)
公害が起こり、その事実について、こういう論調を平気で言う人がいました。「100人くらい死んだって経済成長のほうが重要でしょう。」高度経済成長期1950から1960年代。この頃書かれた経済白書では「尾っぽが本体を振り回しちゃいけない」。そういう議論で環境対策が出過ぎることを戒めています。本体というのは経済成長。尾っぽは環境対策です。そのような認識で国の役人は所得倍増計画を実施していたわけです。
ただし、1972年に出された四日市公害判決において「人の健康・身体に関わるような危険があることが蓋然性のレベルでわかる場合には、経済性を度外視して企業は環境対策をしなければならない。」という判決が出ました。そういう「人の健康・身体に関わる」問題に対しては何よりもましてそれを回避する必要がある。これが「環境」を守る目的として認知された。環境問題によって人が亡くなる、または病気になる、その場合には国をあげて政策を取ってそれを未然防止する必要があるということになりました。
1-3-2 1980年代後半地球環境問題の出現――社会の持続性の確保
(言葉)
もう一つの目的、それは1980年代後半から認識することになる。これは地球環境問題が出てきた時。今の将来のあり方が維持できるのだろうか。そういう大きな問題が出てきた。特にオゾン層破壊・地球の温暖化。その場合、何が持続しなければならないのか、持続可能な開発とは何かということを考えると、経済成長でもなく、個々人が生活を続けることだけでもなく、人類が絶滅しないということでもない。社会の制度、制度を色づける文化が持続することである。これが持続可能な社会の確保という第2の課題です。
先ほどの図で人間の経済、人工物のところ。この人工物がハードだとすると、ソフトがあるんですね。人工物を機能させるための技術、言語、規則、法律、これは人間の経済を動かすソフト面。これが将来に渡って発展できるのか。将来にわたって維持できるのか。これが大きな課題なのです。
例)イースター島の実例
これが維持できなかった人間の経済のケースがある。最近環境白書でも触れられていますが、それがイースター島です。1700年に再発見されたときに原住民がいたわけですが、モヤイ像がどうしてできているのか説明できなかった。一人で歩いていったという説明をした。それから言語が残っていたが、それを読めなかった。言語というのも継続されていなかった。モアイ像を作る技術、それを支えていた社会、社会で使われていた言語、そういったものが継続されていない社会、それがイースター島の社会。
なぜ継続されなかったのかと言うと、やはり環境が破壊されたからです。モアイ像が作られた頃のイースター島というのは緑豊かな島だったということが花粉分析によってわかっている。したがって現在のはげ山の形というのは人の手が加わっていずれかの段階で森林が再生できなかったということを示しています。
したがって、環境を破壊していくと、最終的に、イースターの人は死に絶えてはいないんですね、だけど、文化が継続されていなかった。ソフト面が継続されないという結末になる。これが環境を守ることの第2の課題です。
例)地球温暖化
同様に、温暖化で海面が上昇しても、人間は絶滅しないでしょう。しかし、人口は激減する。それによって文化が継続されなくなる。こういうシナリオが解決すべきシナリオとして認知されてきた。社会持続性の確保という課題は地球温暖化などをとおしてそのことが、80年代後半から政策的に認知されてきたのです。この産業革命以来、増加を続けてきた人口を将来にわたって維持できるのか、私たちの社会を動かしていくソフト面である制度が維持できるのかということが問題になってきます。
1−4 資源の供給可能性
そう考えたときに、まずそれを支える資源が持続的に供給できるかということは重要な問題です。
1-4-1 枯渇性資源はいつまで持つか――数100年のスパンで枯渇に向かう
まず、枯渇性資源に着目しましょう。今はほとんどこれだけとも言えるでしょう。数100年のスパンで枯渇に向かうということがわかっている。
可採年数とは違って、石炭は200年くらいが生産のピークです。石油生産のピークは21世紀初頭です。天然ガスは21世紀半ばです。このピークというのはそのときになくなっていることを意味しません。可採年数というものもありますが、新しい技術が開発されれば埋蔵量は伸びていく可能性があるのであてになりません。
したがって将来予測は、究極の埋蔵量を出し、ヒューバート曲線を当てはめることが今ではなされています。これはアメリカの石油生産についてぴったりとあたりました。全ての枯渇製資源は、生産量が上がっていって、ピークが来て減っていく。究極埋蔵量がわかれば面積がわかるので面積にヒューバート曲線をあてはめて、それからピークがどこか、9割になるのはいつかがわかる。
こういった形で予想していった結果、石油生産は21世紀初頭にピーク、つまり安い石油がなくなるときがわかる。天然ガスについては21世紀半ばにピークが来る。石炭はもう少し先である。ただ、ピークがくるといっても、使えないというわけではありません。
1-4-1-1 枯渇の前に、その使用を控えざるを得ない
簡単な予測をしてみると、今、埋まっている石油、石炭、天然ガス、オイルシェド、メタンハイドレード、その他全ての新しい資源を燃やすとどれくらいの二酸化炭素が出るか。半分は大気中に吸収されると考えても2000ppm を超える。今は370ppm、それが21世紀の終わりごろに、700ppmほどになる。これが問題といわれている。大気中に燃やして出してしまうと、大幅に上回る大気濃度になってしまう。
したがって資源がある段階で何らかの使用を制限せざるを得ない。そういう結論になります。
1-4-1-2 なぜ人口爆発したか。
枯渇性資源については考察の必要がある。なぜ人口爆発したか。産業革命で地中の化石燃料に手を出して一人当たりのエネルギー消費量を増やしたからです。それによって食料の生産も伸ばした。しかし食料生産のエネルギー効率は大幅に下がっており、10分の1程度である。畜産による肉の消費も大変効率が悪く、エネルギー消費投入エネルギーよりえられるエネルギーが小さいです。よって他からエネルギーを投入しないといけなくなっている。
1-4-2 更新性資源は「使える」資源か
1-4-2-1 生物資源は、人類の経済活動に圧迫されてその供給を制約されつつある
したがってかなりのエネルギーを投入することで成り立ってきたのがこれまでの社会です。この際、消費してきたエネルギーの大部分は枯渇性資源であり、9割が化石資源である。いかにしてこれに依存しない形にしていくか、維持できるかの瀬戸際にいる。これに代わる資源が更新性資源――太陽、あるいは地球、月、そういった天体エネルギーによって更新されていく資源――です。
天体エネルギーによって植物が光合成で生産する生物資源(蛋白質)の4割、陸地で生産される純一次生産の4割が人間という一つの種によって独占されている、という研究結果があります。これは50億のときの試算なので、今はもう60億になっているので半分以上独占する日も近いです。それによって、どんどん森林資源がどんどん破壊されている。これが現状です。
1-4-2-2 自然エネルギー資源は資源の既存量は大きいもののこれまで十分に活用されてこなかった
更新性エネルギーとしては、既存量の大きい自然エネルギーが注目されています。日々地上に到達するエネルギー、太陽光のエネルギーは地球全体の1年間のエネルギー消費量の100倍以上生産している。日本だけで見ても、太陽光だけで日本の一次エネルギー消費の100倍はいっている。この自然エネルギーというのは、既存量が非常に大きい。ただ、十分に活用してこなかった。
これは理由があって、化石燃料は少ない資源で集中的に得られる一方、自然エネルギーは分散的に得られるために、単位面積あたりの得られる量は少ない。化石燃料を使用するのと自然エネルギーを使用するのでは、社会形態が違ってくるからだ。今のエネルギー政策は化石資源の使用に対応している。したがって十分に自然エネルギーが開発されていない。
1-4-3 技術的ブレイクスルーの可能性
では、なぜ人は楽観的にいられるのか。
これは技術的ブレイクスルーがあると思っているからだ。
1-4-3-1 原子力発電、高速増殖炉
――今の技術では枯渇性のエネルギーである
ひとつは原子力(核分裂)による発電です。今26%から30%くらいまかなっていてそれで代替できるのではないかということです。しかし、今の技術ではこれは枯渇製資源です。他の国で使用がだぶついているためにウランが余っているが、すべての国が使い始めたら間に合わない。
――一般住民を広く巻き込む事故
これを解決するために高速増殖炉が開発されたが、今のままの技術ではできない。高速増殖炉は技術的に確立していない。一番進んでいたフランスでも実証炉のSUPERFENIXも解体している。ナトリウム漏れが原因でほとんど稼動しなかった。もんじゅもナトリウム漏れが原因で完成一年後に解体。
――明らかになりつつある廃棄費用
事故時の影響、廃棄費用が明らかになってきて、世界的に、一部の国を除いて逆風が吹いている。一部というのはフランスと日本です。日本でも廃棄費用が明らかになってきています。
一方で電力自由化という議論がすすんでいる。今の電力会社の人は電力会社がこの技術を民間レベルで伝えていくのは無理なので、新しい税金でも作って、国がお金を出して、原子力技術を維持していくべきだという考え方が昨年あたりから出てきている。
一つの廃棄費用は、高レベルの廃棄物を処理するための費用で、2000年の法律では3兆円が計上されていますが、それで済むかわからない。世界で見た時、スウェーデンで実施されているが、アメリカでさえ確保できていない。
もう一つかかる廃棄費用が廃炉のための費用です。30年から40年が寿命とされています。しっかり管理すれば60年と言われています。ぼちぼち、初めに建設された原発の廃棄が始まっている。したがってそのためのコストが出てきている。これが予想以上に大きい。
これに対し、経済的に問題があるならば、税金を使って維持するという主張が出てきた。炭素税の導入に賛成する経済学者も増えてきた。税金で維持しなければいけないようないけないものならば、税金として本当にそれでいいのかを考えないといけない。従来は経済性も有利ということを原発をやっていた。技術が安定してきたら民間で経営していくということで考えていたが、予想以上にお金がかかるという事実がわかってきた。したがって、今、本当に経済的に成り立つのか考えなければならない。
1-4-3-2 核融合
――原理的に実現可能かどうかを検証する実験炉の建設すら始まっていない
核融合については、今、実験炉(IPR)の誘致がなされている。これは炉の開発の始めの段階です。順に、実験炉、原型炉、実証炉、商業用の炉があります。実験炉で、本当に発電できるのか、次に原型炉で工学的に維持可能かを見ます。次に実証炉で経済的に維持可能かが検証され、そして商業用の炉になる。核融合に関しては実験炉の建設がやっとなされている。それに数1000億の金を使って導入するのが、果たして正しいのか。技術的にできたとしても、対応年数10年しか持たない、というようなことが危惧されている。核融合から出る中性子の数というのは核分裂発電とは1桁違う。したがって、新しい画期的な技術が開発されないと、今の対応年数より大幅に短くなる可能性があります。それも踏まえた、経済的に引き合うのかの十分に検証されていない。
1-4-3-3 スペースコロニー
環境問題を解決するために宇宙に進出するのは幻想
スペースコロニーも考えられており、これからは宇宙の時代という考え方の人も多い。
しかしそれは幻想です。今の宇宙の実験室は10人未満。推進している人は1万人から100万人のスペースコロニーを月と地球の間にと考えている。重量は1000万トンです。今のスペースシャトルは一回30トンしか打ち上げられない。大規模なシャトルが開発されて一回に100トンできるとしても1000万トンを打ち上げようとすると、10万回打ち上げなければならない。毎年やったとしても10年くらい打ち上げないといけない。
それにより1千万トンのスペースコロニーができるとして、地球問題の解決にはなんら寄与しない。このような経済的に成り立たない政策は止めないといけない。経営者ならやらないはず。会社がつぶれます。そういう判断を技術者だけにまかせておくわけにはいけない。経済的な判断をしなければならない。
1-4-3-4 宇宙発電
なぜ地上で行わないのか
宇宙発電も同じです。「宇宙で太陽光を捕まえた方が効率がいい、25分の1の大きさで済む。だから行う。」というのが推進者の考えだが、ではなぜ25倍の太陽光発電を地球でおこなわないのか。地球のほうがメンテナンスも楽で、壮大な国家間プロジェクトにはならない。今のスカイラボの30万倍ほどの重さのものを打ち上げるなどということにこだわっていてはいけない。
1−5 資源・エネルギー消費の抑制策
1-5-1 環境の限界は、無限のエネルギー源を手にすることによって解決できるという幻想
スペースコロニーにしろ、宇宙発電にしろ、無限のエネルギー供給という幻想を追い求めることから来る発想です。幻想ということをはっきり見極めなければならない。一方で、環境の限界が地球規模で起こっている。
1-5-2 地球規模の環境の限界という切迫性
イギリスの経済学者マルサスが1800年代で、「食料は等差級数的にしか伸びない。人口は等比級数的に伸びる。だから人口が食料生産の限界にぶち当たり、人口爆発はとまる。」これは私に言わせれば外れている。地中の化石資源に手を出したから、今の人口に対応できるだけの生産ができているわけで、マルサスの言っていることの骨格は崩れていないとは思いますが、今の限界というのは地球規模的な限界であります。地域的な環境の限界と異なり、交易や貿易によって限界を回避できない。
1-5-3 資源の需要抑制も重要な政策的選択肢
したがって、冷静に考えていくと資源の需要を抑制していくことも重要な選択肢であると言わざるを得ない。実際、今政策がやっていることはそうです。Co2発生量を1990年に比べて6%の抑制をしなければならない。Co2発生量の抑制は既に行われています。また、廃棄物発生量抑制も次の段階で目標が掲げられるはずです。ヨーロッパでは国レベルの発生抑制している国が多いです。 Co2発生量、廃棄物発生量、資源消費量を抑制していくというものが政策として実際に出てきている。
2、現在の経済学から見た環境問題――環境と経済の対立?
2−1 今の経済学のフレームの欠陥
これに対し、経済的に受け入れられない、昔に戻るのかとか、自然エネルギーでまかなえるわけはない、経済が成り立たないなど、色々な反論が出てくる。こういう政策は人気がない。この一端が経済学のフレームであり、それによって世の経済学者や経済官庁の役人が考えていることです。だからフレームを変えていかなければならないのだ。副題となっている、環境と経済の対立を超えたものに、今の経済学のフレームを変える。
2-1-1 土地を忘れた経済学
今の経済学のフレームというのは2つの重要なことを忘れている。
第一に土地という概念を忘れている。今の経済学というのは、このような生産関数が基本になっている。
Y=f(n,k)
労働(n)と資本(k)を与えれば生産量(Y)が出てくる。
あるいは、資本を省略して
Y=f(n)
と、労働のインプットだけで生産量を導く場合もある。
これが土地、自然の恵みを忘れた経済学と呼ばれている。高校の現代社会では3大生産要素は、労働、土地、資本と学びました。その中には土地が入っています。これは経済学の始祖であるアダム・スミスの諸国民の富(国富論)が作った経済学の基礎である。労働に対する対価として賃金が、土地に対する対価として地代が、資本に対する対価として利潤が支払われます。この場合の土地というのは、自然の恵みに対する地代ということになります。たまたま生産性のある土地を所有している地主にそれが割り与えられる。
しかし経済学が進化していくにしたがって、リカードのときに土地がなくなった。差額地代論というのが現れてくる。ここでは土地でも機械でも同じというような経済になりました。
図示
例)差額地代論の考え方
豊かな土地と普通の土地と痩せた土地。生産物としては同じで、同じ売上高だとします。しかし、豊かな土地は労働者が一人ですみます。普通は二人です。やせた土地では三人です。こういう形で、労働者の数が違ってくる。同じ生産物による利益を賃金として配分することになり、その差異が、差額地代となります。
こういう考え方をすると、土地でなくて、機械でも同じです。良い機織機と悪い機織機。良い機織機は糸が切れないからより少ない労働力で生産できます。この説明だと、土地である必要がありません。もともとは自然の恵みに対する分け前と考えられていた地代ですが、生産要素が相対的に貴重なものに対する分け前としての地代に変質していったのです。こうして土地を忘れていったのです。
2-1-2 モノを忘れた経済学
次に忘れたものは何かというと、モノです。物を忘れた経済学。モノというのは生産物が持っている物理的な実態です。消費の段階では、
U=u(x,ns)
Uは効用、xは消費財、nsは労働供給となります。
これが今の経済学における効用関数です。消費の方はこういう形です。消費財は効用によって表される。ここでは生産物、消費財について物理的な実態が見えてこない。これが物を忘れた経済学です。
ただし古典派では、マルクス、リカードなども古典派に入りますが、実態を有するものが富でした。
音楽家の演奏は、不生産的労働でした。実態を有しないからです、農業は生産的労働です。労働の成果が物として残って初めて、富だとされていました。
これを変えたのが限界革命で、経済学の大きな転換が1870年代におこりました。
労働が物の価値の源泉ではなくて、効用が物の価値の源泉であるとする考え方が出てきた。効用という形で私たちの手に残れば音楽家の演奏も富ということになります。だれでもが演奏できるわけではない。最終的に効用という形で残れば、富なのです。それを表したのが先の式である。
ただ、今の主流な経済学においては材の物質的な側面を取り扱っていない。生産、消費の段階でごみが発生しないことになっている。生産の段階で発生するのは生産物だけ、消費の段階で発生するのか効用だけです。実際を考えると、ごみ、あるいはCo2が必ず出てきます。生産段階で不要物(ごみ、Co2)が出てくるし、消費後もごみが出てくる。不要物が出ることが環境問題の本質となっています。
2−2 今の経済学で捉えた外部性の一種としての環境問題
したがって今の経済学が環境問題を扱えないフレームになっているのです。ただ、今の経済学で環境問題を扱おうとして、主流派の経済学に環境問題を当てはめたのが環境経済学です。外部性の一種として環境問題を捉えています。
2-2-1 外部性の定式化(1)
ある生産者の生産関数において生産量が増え、汚染物質が出て、別の生産関数に影響を与える。あるいはそういう汚染物質が他の効用関数を下げる。
例えばこういう形になります。
y1=f1(n1)
y2=f2(n1,y1)
企業1の生産y1が上がることによって汚染物質が出て、企業2の生産y2が下がる。下がる場合が環境問題です。これが環境問題の定式化の一つです。
2-2-2 外部性の定式化(2)
また、こういった関係もあります。消費者の効用関数の中にある企業の生産量を入れたものです。
y1=f1(n1)
U=u(x,y1)
ある企業の生産量y1が上がることによって、汚染物質が増え、消費者の効用Uを下げる。この直接的依存関係として経済学は環境問題を把握します。どこまで対策を進めるかというと、対策の限界費用、限界便益が等しくなる程度まで、です。これが外部性の内部化です。対策による便益と対策にかかる費用を比較します。環境の価値の貨幣評価がここで重要になってきます。
対策をとることによってこれまで被害を受けていた人の苦痛が和らぐこと、これが対策による限界便益で、対策をとることの苦痛、企業で言えばお金を限界費用とします。対策の限界費用でいえばお金で、企業でどれだけ汚染駆除のために追加的な投資をしたかで出てきますが、限界便益の把握のためには環境の価値を貨幣評価する必要があります。貨幣評価するために今とられている主流な方法がアンケートで、仮想評価をします。これをCVMといいます。
例)CVMの手法
例えば、「四万十川を守るためにいくら払えますか。」「あなたは緑を失うのにいくらもらえば我慢できますか。」といった聞き方をします。これにより貨幣価値を推定します。しかし、これには大きな欠陥があります。アンケートを書くにあたって、環境に価値があることを伝えなければならないことです。したがって、アンケートをやること自体が四万十川のアピールになってしまっている。
また、アンケートの結果、1億数千万の価値があるからといって、それだけの価値の保護につながるかというとそうではない。具体的な政策を動かすに足るようなストレートなデータは出てこない。こういうフレームで対策を講じていけば、生産物が減少し、経済が縮小するのは当然である。だから環境対策が経済に対立してしまう。しかしこれはフレームが間違っており、限界便益と限界費用を比較して、対策を決めているからである。
寓話)二匹の猫
寓話的に書くと、次のような二匹の猫の話になります。白猫のマーコと黒猫のミーコは、お菓子をたべすぎて気持ち悪くなって悩んでいました。白猫のマーコはエコおばさんへ助言をもらいに行きました。エコおばさんは、「お菓子ばかり食べるのではなく、運動しなさい。」と言いました。黒猫のミーコは経済学者のところに行きました。ミーコは、食べることの限界便益、それによって気持ち悪くなることの限界費用が一致するまで食べて良い。」と言われて、ミーコは死んでしまいました。
3、新しい経済学のフレーム
3−1 宇宙船地球号
従来の経済学者の処方箋では環境と経済が対立するということが運命づけられている。今のフレームではその域を出ません。だから新しいフレームが必要であり、物に着目した経済学、つまり、物質的な基盤を明示的に取り扱うことを考える。
有名なのが1966年の宇宙船地球号である。これからの経済の方向を示している。カウボーイ経済と宇宙飛行士経済の2つを示している。カウボーイ経済では流れるモノ、スループットが多いほどほめられました。宇宙飛行士経済では、スループットが小さい方が喜ばれます。
3−2 より実践的なフレームへ――サービスの缶詰
ただ、このような今の経済における先駆者の議論は、今の経済をどう変えていくかに弱いです。もっと具体的に、企業の経営者が意思決定して取り組むような枠組みを作らなければなりません。
これを考えたのがサービスの缶詰というものです。人間の経済活動の目的はモノを消費することではなく、効用を得ることです。また、人間の活動を通して、物質は失われず、加わることもありません。人工物を作る目的は人に対してサービスを提供することです。これが人工物の使命です。物的資源を加工することでサービスを与えること。これが人間の経済を形作っている。
こう考えると物質的な財はサービスを産み出す媒体といえます。輸送可能、利用可能な形態にサービスを保存すること、これがサービスの缶詰という考え方です。
例)時計
時間を伝えるというサービスを買う。そのサービスが最終的な目的です。いずれは壊れて、人間がコントロールしない世界に戻っていき、設計に応じた働きをする限り、壊れない限り経済の中に残ります。
3-2-1サービスの缶詰論における2つの生産関数
――付加価値増加型人的資源と不要物低減型人的資源
サービスの缶詰論では生産関数が2つになります。
一つは、物的資源投入mから製品(商品を構成する物的資源)nと不要物wがでてきます。この関数では不要物wも出てきます。これが物的な資源を構成する捉え方です。この際、不要物の発生割合を低めるために用いられる人的資源投入h2により、そのアウトプットの割合が異なってきます。
m=n+w
n=g(m、h2) ただし、nとwの関係は関数g(h2)に由来。
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もう一つは製品を構成する物的資源にどれだけのサービスを詰め込めるかをしめす関数です。この際、商品の付加価値を高めるために用いられる人的資源投入h1により、そのアウトプットyが異なってきます。
y=f(n、h1) 新古典派経済学と同じ形
例)鉄1トンの製品化に際し、不要物を逓減するための人的資源投入
鉄1トン買ってきてそれを全部製品にすることはできません。どこかで不要な物、端材が出てきます。ここで必要なのが不要物の発生割合を低めるために用いられる人的資源投入h2です。例えば80%使用されたとすると、800キロが使われたことになります。
そして、この投入された物的資源、ここでは800キロの鉄をどういう形で市場に出すのか、ここで必要なのが商品の付加価値を高めるために用いられる人的資源投入h1です。たとえば、800キロの鍋か、800キロの機械かということになります。これによって市場における額が変わってきます。
3-2-2 産業を発展させてきた共益状態
したがって市場へのアウトプットとして変わってくるのは、市場に提供するサービスyということになります。yとはまさにサービスの缶詰であり、評価されるのは、yがどれくらいのサービスを持っているかということになります。
h2に関しては出てくるものと入るものは、質量保存の法則が働きますから、物質量は保存されるので不要物低減型人的資源の良し悪しでその割合がいかようにも変わってきます。
次にh1では、製品を構成する物的資源にどれだけのサービスを詰め込めるかということが重要になってきます。例えばデザイン、耐久性など。このような考え方に基づくと、共益状態、WINWINシチュエーション(環境負荷を減らしつつ利潤を増やす)という考え方が出てきます。
不要物低減型人的資源を投入し、プロバイダ率を向上するとともに、不要物を減らす。これにより経済的にも引き合う可能性が出てきます。物質資源投入をカットし、また、処理費が減るから同じ生産物を生産するとしても利潤が増える。
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こういう議論は今の経済学では出てきません。左半分(図)を無視しているからです。今の経済学では環境対策をすると、サービスが下がってしまうからです。不要物低減型人的資源を外から買ってくると考えると、賃金が大変になるが、ここは知恵の部分です。最近ではコンサルタントをしっかり雇うところも増えてきていますが。
不要なものを減らして、光熱費などをを減らし、それをコンサルタントの賃金にする。それが新しいフレームにすることで出てくる。産業を発展させてきた共益状態がここにあります。
例)石油
石油は何から利用されてきたかというと灯油から利用されはじめました。使いようのないガソリン、なかなか燃えない重油は捨てられていました。そのために環境影響がありました。その後ガソリンエンジン、ディーゼルエンジンが開発され、それでも使われない部分があったのでそれをナフサという形にして、プラスチックにする産業が発展しました。これまでも不要物を製品にすることで産業が発展し、環境負荷を減らしてきました。
3-2-3 共益状態を実現するために、政策の手段
3-2-3-1 環境会計
しかし、こういった共益状態には放っておいたら限界があります。まず財務会計のことしか考えていない場合、認識の遅れ、情報の欠如からこういったことに思いをはせない可能性がある。それに対し、環境会計という取り組みが今進んでいます。企業が年間にどれだけ環境対策をしたのか、環境パフォーマンスをどれだけしてきたか、また、年間の排出量など物的な情報が報告書に載せられています。このような情報公開によって解決していきます。
3-2-3-2 処理費の算出
しかしなお解決されないのが、先にも述べた処理費の問題です。必ず処理費がかかることを前提にしていました。しかし大気汚染などは処理費の算出のしようがありません。あるいは処理費が十分でない場合もある。したがってそういった部分を政策的に補わなければなりません。
3-2-3-3 購入段階での付加価値
家計が消費量を減らすことは困難です。製品として買ってきたものを使用している限り、それには限度があります。たとえば一度冷蔵庫を買ってきたら、節約できることといっても、冷蔵庫の開け閉めを少なくするくらいです。したがってエネルギー多消費型であったら使用の段階で削減努力は困難なのです。そのような点を、設計段階で生産者が考慮しているかというとそうとは言いがたい。
また、将来予測という点でも、民間での決断は年限が限られている。初期投資が若干多くても最終時に光熱費の面でペイバックされるとしても、そこまで配慮するのは難しいです。建物を建てるときに将来の光熱費を考えるというのは難しいです。だから共益状態が起こるように、政策によって長期的な便益を付加して投資させていくことが重要になります。
どこまで政策を施していくかは、これまで忘れていた土地の考え方を復活させて、自然に生産される要素が持続的に供給できる範囲内に環境負荷を抑える。これが環境政策のポイントです。
3-2-3-4 自然科学の知見の必要性
構造的な環境問題、社会的に集積する環境負荷を解決するには、量をコントロールする必要があります。よって製品として出される段階では遅いのです。設計段階、源流段階でやらなければなりません。その段階でインセンティブが働くようにする必要があります。
そのためには経済のルールを変えていく必要があります。そして持続可能性目標を整理する必要がある。人体が持続可能かどうか、社会を構成する個人が生活、健康を損なわないか、といった視点から、考える必要があります。目標の設定を経済学だけではなく、自然科学的の知見を使って決めていくのです。
3-2-3-5 企業間競争の必要性
また、企業の競争を取り入れていくことが重要です。新たなフレームを考えれば環境と経済は相反する物ではありません。今の経済、今の社会から考えていく。利潤追求しながら環境対策できる社会にする。利潤追求は止められません。欲望も抑えるべきではない。抑えようとしても無理です。GNPが増えることは悪いことではありません。ただ、物的資源は一定に抑えることです。民間企業の創意工夫を原動力として、目標を達成していく。これが現実的な考え方です。
3−3 説明責任の義務付けの必要性
総量の抑制と民間企業の競争を両立させなければいけない。その工夫がまず第一に説明責任を確保することです。企業が物的な情報を報告する義務を負わせなければいけない。今は財務だけだが、物量的な報告書を株式上場するような企業には説明をさせる義務を課さなければならない。そうしないと企業経営者は自分の責任として捉えず、また、企業を評価する主体がそういうものを考慮しなくなる。
そのような物的情報が出てくると、環境効率というあらたな目標が出てきます。環境負荷の方の総量を抑制して付加価値をつけていくのです。これにより環境効率のいい企業が優先されるような仕組みをつくる。エコファンドなどの投資、融資の基準などがそうです。それによって物を浪費させて儲かる経済からの脱皮をはかる。物を浪費させる経済は発展の途中段階であって、次の発展段階に移らなければならないのです。
3−4 拡大生産者責任
物を売ることからサービスを売ることにするだけで環境負荷は下がります。農薬から害虫駆除サービスへ。提供するサービスは同じです。害虫駆除サービスならば農薬を使わない方が儲かるようになります。農薬を売るサービスでは浪費させる方が儲かる。ここが一番の違いです。モノを用いないで同じサービスを提供するのです。これが今後の経済発展の方向です。
ただ、完全に物を使わないでサービスを提供することはできません。それは技術的な問題です。缶がなければ飲料は運べません。だから缶をなくすことはできません。また、個人の所有欲が必ず残ります。自動車を持っていること自体がステータスです。よって、消費した後の缶の部分を引き取る政策をすれば良いのです。経済のルールとして拡大生産者責任により缶を生産者に引き取らせるというルールにする。
これができていないから、浪費すれば儲かる経済になっている。今は市町村が税金で廃棄物を引き取るから、回避してしまっている。設計をする人に対して環境負荷のライフサイクルにおける責任を負わせる、という設計者責任という法的な責任を負わせることを制度化していく必要があります。環境影響評価法は存在しますが、政府について、インフラの設計段階にある行政計画についてはまだ整備されていない。
3−5 自然エネルギーの利用主体を自治体へ
3-5-1 永続主体の拡大
自然エネルギーに変えていくこともありますが、一足飛びに自然エネルギーを利用した経済にはなりません。徐々に資源基盤を変えていくのです。これが永続主体という考え方。今でも自然エネルギーだけでまかなえる市町村はあるのです。過疎地とか田舎。そういった主体を徐々に増やしていく、徐々に拡大していく、そういう政策目標を掲げていくことが重要になります。国の一歩です。
これは自治体で自然エネルギー政策が始まるということです。今は中央官庁だけが死産エネルギー政策を担っています。このような政策をして民間の競争が始まったとしても、持続可能な規模が確保されるかいなか。これは保証がないです。そのためにより強いインセンティブが生まれるように生まれるように政策を実施する必要があります。
この一つの例として環境税制改革がありました。これまでは生産物に税金をかけていた。それを廃棄物に税金をかけるようシフトしていく。これがバッズカ税であり、この変更が、環境税制改革です。
3-5-2 持続可能性というミッションを担う組織の必要性
また、環境行政と資源エネルギー行政が統合する必要があります。入りと出が別々の官庁でなされている。環境庁に私がいたときには通産省とぶつかっていました。これは同じことを別の入り口からやっていて、結局のところ、同じことをやっているからです。排出抑制については環境庁で、資源、貿易については通産省。
持続可能性という一つのミッションをやる一つの省庁が必要です。私は地方公共団体に期待するところが大きい。縦割りの中央省庁から離れた組織であり、また大統領型の首長がいるところでは新しいことに対する意思決定が容易で実現しやすいからです。
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