はじめに
こんにちは。私は1998年から早稲田に新しく出来たアジア太平洋研究科で教授をしている原と申します。
留学生が半分な訳でありますが、そこでプロジェクト研究と言って、「環境と持続可能な発展論」という講座と同じ名前のゼミナール、それと「マスメディア論」という講義をやっております。
私は元ジャーナリストで、実は現在も毎日新聞の客員編集員ですのでかなりの頻度で新聞に登場してまいります。
そこで今日、このテーマで是非ここで話をせよという相談を受けまして、喜んで諸君とお会いする事を楽しみにしてきた訳であります。
東京大学には私の友人であった朝日新聞の石弘之君が確か大学院で同じテーマを担当しています。
それからもう一人同じ代に読売新聞に岡島君という記者がいます。
この人が大妻女子大で同じテーマを担当しているわけであります。
石君と岡島君と私は、ここ20年くらい、地球規模に広がった環境問題を報道する所謂エンバイアロメンタルジャーナリストの先陣を、
朝日と読売と毎日で切っていった事になるわけです。
大学でやってみないかという話が随分昔から色々な大学からあったんですけども、
ちょっとアカデミズムには馴染まないんじゃないのかな、という感じがあったんですよ。
プラスとマイナスと両方の意味で馴染まないだろうという感じです。
まあそれでもやってみようじゃないかという事で、石君は東大に行き、私は早稲田に行き、岡島君は大妻女子大に行きました。
普通は記者がつるむと言いますか、同じテーマで仲良くやっていくという事はまずありません。
じゃあ何で環境問題を担当した記者が心を合わせて報道してきたかと言いますと、
それは恐らく一つには環境問題というのが一過性の事件ではなくて、
きわめて構造的な社会の要因から起こってくる出来事であるからです。
これは誰かが焦って特ダネをしいても事態時代を改めるという事にはまずならない。
現代の商業ジャーナリズムにおいては辛い、息の長いテーマであるということが一つあります。
そういうものにずっと取り組んできた同士として、記者の垣根を越えて大変仲良く付き合って今に至っていると言うわけです。
もっと大事な事は、其々の記者達の好みと言いますかライフサイクルと言いますか、
そこに所謂一本の似通った線があるわけですね。
つまり、当時としては自然のメッセージに敏感な青年報道グループだったわけであります。
諸君が大学で勉強して新聞社に入るということは、幹部候補生として入るわけです。
つまりゼネラリストである事を最初から期待されているわけです。
ですからある特定の部署に長くとどまって専門家になる事はあまり好ましい事とは思われていなかったわけであります。
そういう社内状況の中で、息の長い、しかも、ある種の何かを擁護する、共感をもって報道に携わるという事は、
それを現代のジャーナリズムの中で続けていくという事はそれなりの決断が必要になってくるのです。
そういう観点から今日は、advocacy journalism、つまりこれは何かを弁護すると言いますか擁護すると言いますか、
ある価値観を持って何かを報道するといったことについてお話します。
ご存知のようにこれは現在のジャーナリズムではずっと禁じ手とされてきました。
価値観を持って報道するという事は報道ジャーナリズムとしてはあり得ない、
そうしたら言論ジャーナリズムなってしまうわけです。
報道はそういう事をしてはいけない。あくまでも客観的に物を述べるものだと教え込まれてきたわけです。
ところが、今日お話しする環境ジャーナリズムというものには、
客観報道というものが成立するのかどうか、そもそも客観とは何を意味するのか、
それがもし形式論理になったときに現実社会に一体何が起きるのか、
そういうところに経験則上大きな問題をはらんでいると思います。
その辺りを、皆さんに私の体験に基づいて問題を提起したいと思います。
ジャーナリズムとは何か
レジュメを見ていただきますと、1,2,3,と大きなテーマが出ております。
第一に環境ジャーナリズムの全体をお話する所で、
そもそも環境ジャーナリズムとは一体何をやっているんだというの点であります。
それから第二点は、環境ジャーナリズムは具体的に環境問題をどのように伝えてきたのか。
その事を、本来のジャーナリズムとは何か、という観点から検証します。
これは私の、水俣病から地球温暖化に至るまで40年間に渡って現場をフォローしてきた体験に基づいてお話したいと思います。
それから第三点は、アメリカにある大変パワフルな環境ジャーナリストの会についてです。
アメリカの大学院においては環境ジャーナリズムというものは確固たる地位を占めておりました。
専門大学院もありまして、いったん出た人たちがそこへ戻ってきて、
例えばコロンビアのジャーナリズムスクールで勉強してまた現場へ戻るということをしているわけです。
日本ではまだジャーナリズム大学院というものは珍しい。
今早稲田が構想を作って実現に向かうかどうかという議論をしているのであります。
これはアメリカにおいては当然なのですが、アジアにもジャーナリストの会というものがあるわけでして、
これは誠に途上国の惨憺たる状況の中で報道を続けているところです。
一,二でそれなりの体験を積み重ね、多くの失敗を重ね、何をどうすべきであるかという多くの反省をもって、
これから報道に望もうとしている。それを、アメリカやアジアの記者達と分かち合おうという訳でいくつかのアソシエーションが出来る。
その辺りを一,二,三のテーマで伝えてみたいと思うわけであります。
例えば水俣病を取ってみれば、皆さんが生まれたのは1983年とか84年とかでありましょうが、
水俣病が実際に大きな社会問題になってきたのは1956年から60年代にかけてで、皆さんにとって見るとはるか昔の事です。
そのため歴史的な事実としては認識されるが今の皆さんの生活や価値観とは何の関わりもありません。
ですが私は報道の現場にいたわけですので、ジャーナリストとしてそこから逃げられない、目をそらす事が出来ないわけです。
これはジャーナリズムの本質でありますから、そういう意味では私にとってはなおシリアスな現実であるし、
本当に今も生々しく生き続けているテーマであります。
そういった差を埋めるためにいくつかのスライドを用意してきました。
かなり沢山のスライドが出てきますので、私が話す内容がどういうものであるかを、
スライドを見ながら考え、共有していただきたいと思います。
まず最初に1の「ジャーナリズムとは何か」という事です。
ここに、W.リップマンという、大変優れたジャーナリストがいました。 彼は1889〜1924の時代に生きたんです。
1922年にpublic opinion、『世論』という本を書いているわけであります。
これは本質をついたジャーナリズム論であり、「ニュースと真実は同一物ではない」、そうはっきりと区別されている。
「ニュースというのは社会状況の全面を映す鏡ではない。独りでに突出してきたある一面についての報告である。
ある出来事のはっきりしている局面を、しかも興味をそそる物を語るものとして伝えられた、それがニュースだ。」
こういっている訳であります。何となれば、
「ジャーナリズムは例外はあるにせよ素材を直接報道する物ではなくて、
素材がある形に整えられてから報道されるものだからだ。」
こういう風にリップマンは言っているわけです。
つまり、結論として言いますと、
ニュースとは現実の中で突出した出来事で、なおかつ人々の興味関心を引くものであって、
しかも出来事そのものではなくてその報告であるという事です。
したがって皆さんのレジュメに書いたのは、
マスメディアが伝える情報とは必ずしも現実に横たわる外の世界そのものの情報ではない。
現実に横たわる外の世界を現実の環境とすれば、それはいわばコピーの世界である。
地図の世界、あるいは記号環境と言ってもいいかもしれないということです。
注意しなければならないのは、皆さんが現代のジャーナリズムに対して共通に持っているある種の疑問とは、
この記号環境が非常に肥大化してしまって、この本当の外に横たわる客観的な、
本当の意味での現実環境を圧倒しているのではないかという点であろう。
バイアスのかかった、あるいは整頓された意図的な報道がなされているのではないかという懸念であろう。
そういう事をテレビの画面などから強く感じているのではないか。と思うわけであります。
リップマンが『世論』を書いた1922年という時期は、ご存知の通りベルサイユ条約が結ばれた翌々年であります。
1919年にご承知の第一次世界大戦の戦後処理のために連合国とドイツの間で調印された講和条約であります。
ドイツはこれによって領土を分割され莫大な賠償金を、あるいは軍備の徹底した削減を求められる。
これがヒトラー台頭の大きな原因になっていく事は諸君も世界史で勉強したとおりであります。
そのときに、敢えてリップマンが『世論』を書いた理由というのは、ベルサイユ条約が結ばれていく過程で人々は、
メディアによる二次的なニュース。どこからどうやってそのニュースが出たのかは分からないが、
しかし日々、再生産されてくるニュース、噂話、憶測。そういったものの上に成り立った擬似環境に反応している。
それに作られていったドイツ像や戦争像というものがめぐりめぐってドイツを追い込んで、ベルサイユ条約に結びついたと。
いわば、煽動とか喧伝の餌食になってしまったからだと。そう考えたわけです。
リップマンは、人間が自分の力で自分の環境を制御しよう、その力を持つことがデモクラシーの前提であると考えたわけですね。
客観的な事実の報道によって人々の判断する能力が回復すると考えたわけですね。
つまり、自由な民主主義社会の市民の自己決定のための情報を間違いなく提供する、それがジャーナリズムの使命だというわけです。
ニュースの背後にある隠された事実を有機的に知的に再編成していく、その過程がジャーナリズムの社会的義務だ。
これがリップマンのジャーナリズム論です。
これは現代においても変わらない非常に的を得たジャーナリズム論であり、ジャーナリズムの社会的責任論である。
もう一度分かりやすく言いますと、
「現実の環境」というものがあって、そこから「環境のイメージ」があって、「人間の行動」がある。
現実の環境とは、皆さんの外に横たわる本当の客観的な環境であります。
ところが環境のイメージというのは、先ほど言った擬似環境にしばしば陥る可能性がある。
どうして擬似環境に陥るかというと、固定観念というものを私達は持ってしまっています。
これがステレオタイプを作り出してしまう。
問題は、そういう風に皆さんが固定観念で環境のイメージを作ってしまうことです。
自己決定のために必要な情報というのは、それに基づいて人々が政治判断をするもの。
それが擬似環境ではなくて現実の世界で行われたときに何が起こるかという事を問題にしているのです。
この指摘はいつも私自身が新聞記事を書いてきたときから頭の中にありました。
つまり合理的な意見形成に必要な条件である客観的事実は果たして自明なものなのかどうか、という事であります。
これを最初にジャーナリズム論の原点として申し上げたのは、
これから話す環境ジャーナリズムを我々がどういう風に評価・批判していくのかという時に、
今のようなものを下敷きにして聞いていただきたいからです。
環境問題の報道といいますのは、私は40年間現場に身を置いてきたわけでありますけど、
本当にちょっと油断するとこういう落とし穴にスポッとはまってしまう。
事実を野球の試合の実況のように報道すれば、客観的にジャーナリズムとして自明の真実を伝えてるのかというと全くそうではないのです。
公害報道を扱う理由
そこで、次のテーマに移りますが、皆さんは環境報道と言っている公害報道ですが、
環境と公害というのは、常識的には環境がより広い包括的な概念であるし、
公害とはどちらかというとpublic nuisanceという言葉が示すように、ある種の迷惑句行為であります。
チッソという企業によって水俣病が引き起こされたようなものを公害という印象として持っていると思います。
大体それでいいと思います。公害から環境に大きく転じていくというのは後で話します。
まず私が新聞社に入ったのは1961年でありますが、諸君が生まれるはるか昔であります。
当時、日本の社会に劇的な変化がおきますね。これはご承知の日米安全保障条約です。
それがあのような形で改訂されて、クタクタになった社会から一転して金儲けに転じようとしたんですね。
池田勇人という首相が「10年間で君等の財布の厚さを倍にしてみせる」と言ったんですね。
それで日本は有名な高度経済成長に突入します。
全国総合開発計画というものが、1962年に閣議で決定された。
みなさんが今日見るようなコンビナートはそれによって作られたわけです。
あるいは工業整備特別地域、つまり日本列島の各地での集団的なコンビナートを中心にした工場立地は、
この計画によって、10年ごとに計画を改める事によってこういう姿になっていきました。
つまり日本経済をこういう形に構造を変えてきた原案は1962年の全国総合開発計画だったわけです。
高度経済成長があって我々は確かに豊かになったわけです。
皆さんはさらにそれが定着した時代に生まれて、それが大きな転換期に来ている時期にめぐり合わせているわけです。
その当時、私が環境公害報道を行うに至った最初の例を挙げます。
私が大学を出て新聞社に入ったのは1961年ですが、この頃の東京駅に皆さんが仮に朝8時から9時にかけて降りたとします。
それで、丸の内側に歩いてきますと、真正面に丸ビルと新丸ビルがありますよね。
それで、突き抜けたところが皇居ですよね。皇居のお堀がすぐにあって、森があって城があって。あれ見えないんですよ。
ブァ〜っと黒い煙の中に沈んで見えないんですよ。
ちょっとこっち来て三菱仲通りに来てずっと、日比谷劇場の方に向かって歩いていくと、
まず2ブロック先は完全に霞の中に沈んで見えない。
それはどういう事かといいますと、とくに秋口から冬にかけて春にかけてそうなんですけど、逆転層が発生するんですね。
つまり上下の気温差が逆になって、工場の煙やら車の排ガスやらがずっと下に溜まっちゃうわけですね。
本当に墨絵のような状態になってますね。
当時はしかし一切そのことを規制する法律はないわけです。
当時その事に怒る東京都民は、社会党と共産党が推薦した美濃部知事を圧倒的な強さで支えて、
彼は公害を旗印に連戦連勝していくわけですね。自民党にとると大変不安な状態が起こり始めた事になるわけです。
隅田川の淵をずっと歩きますと、今はずっと防潮堤といって高潮が中に入ってこないようにコンクリートの塀が
両方に1.8メートルの高さで続いていて川面は見えませんけども、もとは開かれた空間になっていたんです。
そこに鍋物や金物屋さんが並んでいたんですけども、隅田川から硫化水素が吹き上げて鍋や釜が黒くなっちゃうんですよ。
で、東京都に営業の補償を求めるようなことが起こっていたんですよ。
だから皆さんが考えている今の日本の社会と、私がジャーナリストとしてスタートして
環境報道を行う動機付けになった時代状況には大きなギャップがある。
だからこれから私が話す内容といいますのは、歴史的には事実として分かるんだけど、
それが皆さんがいま直面しているCO2による温暖化とどう関連しているんだという疑問を持つものかもしれません。
ですがこれは環境問題を論じているのではなくて、環境問題を報道するジャーナリズムの視点というものがどこにあるのか、
どういう構造なのかというのを見る事で、日本の環境ジャーナリズムというものがどういう構造に
あったのかというというのを考える一つのヒントとして話そうと思っています。
日本の環境報道の性格
環境庁が出来たのが1971年7月のことです。これは先ほど申し上げた全総が出来てから丁度10年。次の新しい全総に受け継がれた年なんですね。
なぜ環境庁が必要になったかというと、もう、環境庁無しではやっていけなくなったんですね。
今申し上げたようにそれは自民党にとって非常に危険な政治状況になったという事です。
福岡・大阪・京都・名古屋・東京・川崎・横浜、全部社会党か共産党が推薦した知事です。
全く自民党に票が入らなかった。見事なものです。
環境破壊をしたのは、資本が利潤を追求し、自民党の政権が大資本の利益に追随したためだと野党は批判したわけですね。
公明党も今ほど与党的ではありませんでしたから、これも非常に自主、独立で色んなことを強力にやっていた。
つまり自民党にとっては厳しい時代であった。
第二次全国総合開発計画がスタートした1969年以降の社会の状況というのは
、環境庁の付き添いなしにもはや経済成長を追い求めることはありえなかったんです。
そのころに自民党の本質を田中角栄さんが表明している。閣議の席で田中角栄さんは
「環境庁は『苦情承り庁』だ」と言ったんですね。
多分世間の人もその認識と違わなかっただろう。「苦情承り庁」だと。
本質的な問題はどうでもいいと、色々と煩いとか汚いとかあれば言ってこいと。
実は環境庁を作ったことが、構造的な社会変化の原点になるという認識が無かった訳ですね。
イノベーションと言う言葉を皆さんご存知ですよね。このイノベーションという言葉には二つの意味があって、
テクノロジーのイノベーションとしての問題と、そのテクノロジーのイノベーションによって
引き起こされる社会の構造の変化と両方の意味を持っているわけですね。
これは抵抗を受けながらもあるときガラっと世の中を変えていくという性格を持つ。
これが我々の歴史の中で何度も繰り返されてきたわけですけれども、ちょうどそういったスタートの時期に、
私達も環境報道をはじめたのです。
そこで、そういう社会状況の中で環境報道をはじめるというのは、
自ずからその性格を規定付けられたと言ってよかったと思います。
経済成長に向かって全国総合開発計画をつくり地域にコンビナートを立地していく。
特別地域を作ってとにかくそこに外来型のエクソジーナスなディブロップメントの理論を入れて、
外から資本と技術を入れて地域を開発して所得を上げて公共事業をやって資本の利潤を高めるような事をして、
それで地方の福祉に還元するというようなそういう理屈だったんですね。
これはご承知の通り失敗もするし、部分的には成功していくわけですけども、
そこから環境破壊が、例えば四日市のように起こってくるわけですが、
それを批判するという事は国策を批判する事になるんですね。
あるいは日本の多くの国民が「財布が厚くなるぞ」と言われた事に対して、
「いや、あんたらは財布の厚さの代わりに何をしたんだ」と、新聞の読者に向かって我々が書く事になるわけです。
人が踊りを踊っている時に水をかけるようなものです。
さらに、どこで問題がおきたかと言いますと、
今のように地球規模の広がりを持っていたわけでなく水俣「病」だった訳です。
チッソと周辺の漁民であると。あるいは四日市の三菱系のコンビナートとその開発による四日市の漁民、あるいは農民だ、と。
こういう構造がはっきりしていた訳です。
それは何を意味していたかと言うと、「中央に対する周辺地域」なんですね。
東京から見ればそんな事はどうでもいいんですね。
そのように、「国策に対する批判」であるという事と「中央に対する周辺地域からの批判」であるという事と「工業化に対する農林漁業と言う一次産業の批判」であるということがこの時期の公害報道の特徴だった訳です。
水俣患者は地域社会の底辺層と言ってもいい漁村集落集団に起こった事件であります。
海の生態系が破壊された事で地域社会そのものの崩壊に繋がったという事件だった訳ですね。
国策批判と言いましたが、チッソという工場は戦後の日本が食糧不足の時に最も重要な肥料である窒素を生産していたわけです。
国策の最たるものですね。その時にあのような事件が起こる。
一方、コンビナートを作りますと当然その周辺地域に色々な公害問題が起こってきます。
大気汚染や水質汚濁。それはすべて農業の生産現場や漁業の現場、場合によっては林業の現場にそれが影響します。
産業構造の面から言えば、産業の構造を高度成長の装置に変えて、工業労働者に一次産業の労働者を大量に入れ込んだのです。
マクロに言えば正しかったんでしょうね。一家あたり1ヘクタールの農地しかないような日本の農業が
どうして自立出来るのかと、これは事実です。実際、兼業をやっているからこそ日本の農業は営まれてきた訳です。
860万/年の平均収入、これを約2.6人で働いて日本の農家は得ている。しかし農業収入はいくらかと言うと、
120〜130万ですよ。食えたもんじゃありません。兼業は何のために存在するのかと言えば、
それは今申し上げたような工業化政策の中で可能になってきたものです。
「あなたの言っていることは確かにその通りだが、しかしそれで日本農業に将来一体何が起こるんだ」
という反論が絶えず起こってきた訳ですね。これはもちろん農政の問題でいくつかの答はあるんですがここでは触れません。
必要な事は、公害の環境報道の方法を振り返って見たときに、足尾銅山の鉱毒事件とか、
あるいは水俣湾の有機水銀中毒事件を批判的に伝えるということは、国の産業政策に対する批判であり、
中央に対する周辺地域からの問題提起であり、工業に対する一次産業からの疑問の提起であったという事です。
それは足尾銅山の時代も現代も、構造的には恐らく変わっていないだろうと思います。
この辺りは日本の環境報道の性格と言うべきものだと思います。
実際1960年代から始まる高度経済成長の結果引き起こされる公害問題に対して、
ジャーナリズムの内側はどういう反応をしたかということです。
これは、やはり新聞と言うものは事件を報道するんですね。
事件というのは、なるべく早い時間にドラスティックにはっきりした結果が出るものです。
黒白がはっきりついて、どんどん次々に新しい事件が起きていく。スピーディーにものが動くものです。
私達社会部の記者というのは、事件をやっている訳ですね。
そこで例えば水俣のような事件が起きた時にどういう反応が起きるかというと、「一体何が原因だ」となるわけです。
究明には何年もかかる訳ですよ。しかも途中でご承知の通り違った意見がかなり意図的に企業擁護の側から流されてくる。
行政がそれにコミットしてくる。ジャーナリズムは何が事実か判断できない。
「客観報道」によって異なる見解に、機械的に紙面を割りふって、読者はそれにより混乱する。
そうしている間にも公害病の患者はどんどん死んでいく。そういう構造を辿る訳です。
どちらかというと事件担当の社会部記者としてはあまり手を染めたくない分野であったかもしれません。
結論がなかなか出ない。しかも、現場ははるか東京から遠かった。
だから社会部のような所でやっておりますと、事件のような一過性の報道に環境報道は馴染まない。
後に公害が社会問題化してくると環境報道は人気がないという状況は一変する。
私などがデスクに呼ばれて「キミ、よく頑張ったな。キミは何と一ヶ月間にトップニュースを23回書いた。」と言われて、
「あぁ、そんなに書いたんですか。こっちは別にそんな事計算していませんから。」と言った。
1面もあれば社会面もあるから華々しい面ばかりじゃないし、夕刊もあると言う時代の23回です。
それにしてはやはり、記事の量は異常に多かった訳でありますね。
そのようなメディアの状況に至るまでに我々は公害事件の報道・判断に失敗して、
例えば水俣のような地域で多くの人間が命を失っていくのを救えなかったわけです。
環境報道の意味〜水俣を例に〜
じゃあ水俣病の報道は具体的にどのように行われてきたかという事についてこれから紹介します。
国策に背くような、高度経済成長で人が踊っている時にそれに水をかけるような報道が受け入れられないと言うのは
誰にでも分かる話でありますし、場合によっては自分の記事を読んでいる読者にえらく苦い思いをさせる事になる訳ですね。
その点を承知の上で記事を書かなければいけなかった。
まして、革新政党がそれぞれに反対運動をして、企業と対立したときにどういう風な
日本社会の反応が出てくるかと言いますと、「あいつは赤だ」というものです。
酷い話なんですが、国の政策に反対することはそういう風な言われ方をしていた。
かえって私なんかはそういわれる事で「あなた方の方がよほど世の中を貶めているんだ」と意欲を掻き立てられた。
あえて言えば世間の風潮に対決するような事をやってきた訳であります。
そのとき、何がマクロな意味で自分の拠り所であったのかと言いますと、日本国憲法だったんですよ。
われに大義あり、そう思ってましたね。我々が報道の際に基準にしたのは日本国憲法の基本的人権だったんです。
生命であり財産であり、報道・言論・思想の自由だったんです。
それを誠に実現させまいとする当時の日本の地域社会の中で、虐げられた被害者の方から、
そのようなものを回復し、実現する過程が今振り返ってみると非常に大きな環境報道の社会的責任、意義だったと思う。
ジャーナリズムが何かを擁護して戦うには大義が必要な訳ですね。
敗れた時にそこから引かないだけの気構えが必要な訳です。
大きな話になりますけど、そういうところに私達は日本国憲法を置いた。
つまり、基本的人権を実現していく過程が、日本の地域から始まった環境報道の原点にあるという事です。
それが環境報道の担った価値だったのではないかと強く感じる訳であります。
いまから環境報道の具体的な失敗例を含めて水俣病を報道を検証してみたいと思います。
主として朝日新聞の記事によってこれを行っていきたいと思います。
水俣病はご承知の通りチッソという外から入ってきた企業、これは最精鋭の企業で
当時の理工系の大学を卒業した学生の就職希望の第1位はチッソだったんですけど、
そこで生産過程から副生物として有機水銀が出て排水と一緒に海の中に入って魚を介して生物濃縮をどんどん重ねて、
最後に人間の体に入って、女性の場合は妊娠してそれを子供に移してしまう。
そういう風にして重い障害のある赤ん坊が生まれてきた訳ですね。有機水銀中毒で最初から立脚できない、
あるいは脳に障害のある子供が多数生まれてきたのです。
その初期の段階で何が起こったかと言いますと、これは私なんかも印象に残っているのですが、1950年の初期から、
水俣は温泉街だったのですが、猫が変な踊りをしていると言うような事が言われるようになったんです。
前足で立ってキリキリと猫踊りをしていると。それを面白がって温泉から上がったら浴衣着て観光客が見物していたんですね。
しかし「どうも人間にも同じ事がおきてるんじゃないか」と気付いたんですね。自然の循環の恐ろしさですね。
そこがスタートでした。例えば、1954年8月に熊本新聞と言う大変優れた地方紙なんですけど、
『猫、癲癇で全滅。何故か水俣で殺鼠剤バカ売れ』と書いたんですね。
おかしいなと。何があったんだろう、ネズミがどんどん増えている、何故だ、猫がいなくなったからです。
その地域の猫が全部キリキリ舞いをして死んでいったんです。
で、これはおかしいという事でこのような記事を54年8月1日のの朝刊で報道したんです。これがスタートです。
そこから色んな所の関心を引いて、調査ジャーナリズムといいますか、
色んな新聞社がそこで調査報道を開始する訳であります。
これについては、朝日新聞があるとき自分の報道というものが如何に間違っていたかという事を、朝日自身が2ページを使って検証しました。
「猫、癲癇で全滅」という記事が出てから、2年たって1956年の6月に、チッソの付属の病院があるわけですが、
そこに大量の奇病の患者が入ってきました。30人いるうちの11人が死んだという情報がありまして、
これが保健所に報告される。よって、1956年の5月に水俣病が公式に発見されたとなる訳です。
だからその前に猫や魚などに生態系で異変が起こっているのですが、
オフィシャルな記録に載ったのが56年の5月という事になります。
それを、1956年の8月に、朝日新聞の熊本支局が全国ニュースとして東京に送った。しかしボツになった。
九州のブロック版には「水俣地方に奇病。病原体分からず高い死亡率」という記事が載った。
このように、事件の一方が載らないとその後が非常に書きにくくなるんですよ。
つまりある事件が、そこで第二報、第三報は次の場面転換で報道は書きつぐのですけども、
出だしで失敗してしまっていると改めて初めから事の次第を書かなければいけない。
しかし、事実はもうここで過去のものになっているわけです。
という訳で、第一報で失敗しますと後のニュースの扱いに大変なマイナスになってくる。
翌年の1957年に熊本大学の医学部が大奮闘しまして、これは非常に立派なものでして熊本大学医学部の
水俣病における患者への確固たる貢献なんですが、「魚介類を媒体とした重金属中毒である。」という、
ほぼ本質に近い研究成果をまとめ上げたわけですね。再び朝日はそれを東京の新聞に送ったら
また載らずにボツになったんですよ。いつ載ったかと言いますと、1957年の4月に東京の霞ヶ関の厚生省で、
厚生省の発表に基づき「熊本県で奇魚。厚生省で調査。」そういう厚生省の記者が書いた記事が出たときに始めて、
社会面の3段に載ったわけです。その後57年の4月に、水俣湾で漁獲禁止、
一切これは魚を食べてはいけないと言う大変大きな問題が、県が認めて厚生省もこれを是認すると、
そのような現地発の記事が初めて3段で出たという事であります。
その後1959年の7月に朝日新聞は「有機水銀が原因である」という特ダネをものにするわけですが、
しかもそれは工場廃水であるというものだったのですが、これもボツでした。
もしこの記事を私が書いていたとしたら、それはもう本当に憤まんなる方ない思いだったと思います。
さっきも申し上げましたが、やはり環境報道を規定していたものは、
周辺地域に起こった、アイソレイトした田舎の地域の記事はどうでもいいというのが当時の流れだったと言わざるを得ないですね。
では、いつ水俣病はどういう理由で東京の新聞に大きく載ったかという事ですが、
これはまさにリップマンの言った通りの状況に倒れた時です。
59年の11月2日に、衆議院の環境委員会の議員達が水俣に視察に行き現場を見たんですね。
その日は何百人もの漁民や農民が仕事を休んで後をついて歩いていた。
水俣の駅前で、議員がそれぞれ「これは大変だ。何とかします。」という事を言っって帰っていったわけですね。
で、議員が帰っ後に集まった漁民がクルっと後ろを向いた訳です。
後ろを向くと道は真っ直ぐにチッソの正面玄関に続いているんですね。で、そこへ向かって自然発生的に歩いていった時に、
漁師の若者グループが塀を乗り越えて中へ入ったんですね。
そして事務所の窓を叩き破って中にあったロッカーや机を放り出して、書類を引き裂いて、
要するに騒乱状態になったんです。それで熊本県警がドッと出動して、何十人と捕まるわけですよ。
それで初めて東京の朝日新聞は社会面一面に写真入で載せた訳ですね。
「水俣病、熊本で漁民騒ぎ。警官72人が負傷。新日(新日本チッソ)に押しかけ」これが社会面のトップだったんです。
だから我々は四日市でも水俣でも言われた事なんですが、
「あんた方はどんなに重要なことでも、我々が騒ぎを起こさなければニュースにしないじゃないか。」と。
リップマンが言った通りなんですね。マスコミは取り上げてくれないじゃないか、と。
後で紹介する四日市公害でもそうだった。
この事が大変に批判を受けました。まさに「ニュースとは何であるのか」ということです。
問題はニュースの裏にある隠された事実を如何につなぎ合わせて、
しかも知的に(インテリジェントに)再構成して行くかという事。
それを読む人が社会の中で判断する正当な根拠を提供する事。それがジャーナリズムの任務というものです。
そこで初めて我々は自分の置かれた立場を認識していくわけです。まさにニュースは、一つの事件に合図するにすぎないと。
隠された諸々の事実に光をあてて、率直に関係付ける。そして人々がそれに基づいて行動できるように現実の姿を描き出す事である。
この過程において、ニュースの機能と真実の機能が合致するんだということです。
人々がしっかりと環境のイメージを持って自己決定するに相応しい情報提供をするのだということであります。
これはその後、環境ジャーナリズムにおける「中央と地方」、つまり「東京と周辺地域」という、一種の事大主義というか、
認識学が、水俣病の原因究明の段階で再び増幅された形で再現する事になる。
そこでは、「何が原因か」という事が一番重要なわけですよね。
そうすると熊本大学の医学部は現場を見て疫学調査をやっている。そして、水俣病の原因が工場廃水に由来する
有機水銀だという事は、59年の段階で既に発表しているわけですね。ところがそれを受けて今度はチッソ側が、
水銀ではないという説を打ち出すわけですね。それから化学工業会という団体も同じように「非水銀説」を打ち出すわけです。
「爆薬だ」と。旧日本帝国海軍だか陸軍が、敗戦によって、持っていた爆弾を水俣の海に捨てて逃げた、と。
それが腐って魚に移ったというのだ。まあ、これは嘘だったわけですが。
あるいは、決定的に大混乱に陥れたのものに、東工大のある教授と東邦大のある教授が発表した
「有毒アミン説」というのがあります。アミンと言うのは有毒なアンモニアの化合物です。
これが魚を経由して体に入ったと言う説です。でもさすがに厚生省も調査会を作ってずっと調べていて、
「熊本大学の判断が正しい」と実は厚生省内部の審議会は決断していたわけです。
つまり学会としてはこれを認めてなかったんです。
しかしですね、新聞はどうしたかと言うと、「これ(厚生省の判断)がどこで発表されたか」という事です。
熊本大学ではないですね、厚生省の記者クラブ、場合によっては通産省の記者クラブ、
そういうところに持ってきて大学の教授が報告する訳ですよ。どういうタイミングで報告するかと言うと、
審議会が「熊本大学が水銀説を出しましたよ」と決めてそれをオープンにしようとする前後にやるわけです。
そうすると新聞は「客観報道」をする訳ですから紙面を二つに割くわけですよ。片方に「熊大説」、片方には「チッソ説」を書く。
すると読者は「ああ、原因は分からないんだな。」と思うわけです。それを何度も繰り返しているうちに時間がたつ。
もっと酷くなってきますと、今度は行政がこちらに呼応するわけです。
本来厚生省という安全を扱う機関に任せておけばそれなりに事実の解明が進んでいった筈のものを、
厚生省の調査会を解散させて、当時の水行政は経済企画庁がやっていて、農林省は水産地を持ってましたし、
通産省は企業の監督をやっていましたから、通産・農林・経済企画庁というのがここに入ってくるわけです。
するといよいよ厚生省の審議会は異論が渦巻くわけですね。すると新聞はその通りかの異論を実況放送するわけですね。
何故かというと、「客観報道」をやれと言われるからです。しかも新聞には自己検証能力は無い。
ここは非常に重要なところですよ。新聞に自己検証能力が無かったかというと、私はそうでないと思う。
朝日新聞もそのことは自紙の中で指摘しております。やはり熊本大学の医学部のやった事を
きちっとフォローしていればですね、熊大が正しいという事は分かっていたはずです。
学者や役人が中央官庁の権威を笠に着て、記者クラブで発表する事など、熊本大学が苦労を重ねて現場で
積み上げてきた事実の持つ重みに堪えないという事は、現場をきちっと調査・報道して歩いていれば
相当な確信を持って言えることです。
たとえば私が当時水俣通信部で記事を書くと最終的に東京本社の社会部デスクに行くでしょうね。
デスクと言うのは5〜6人いて当番制でしょっちゅう入れ替わります。
私のように環境問題を担当していればそれなりの判断が出来るでしょうが、そうでなければ判断できないでしょうね。
メディアの流すものは時間的・紙面的に限られていますから、プライオリティーがこっちだって思えばこれ(水俣病)はゼロになってしまうわけです。
そういう事が重なってきますと全く日の目を受けなくなってしまう。
あるいは場合によっては意図的に「こんな怪しげなものは載せない」という事になるかもしれませんね。
ですから、隠された事実を有機的に知的に再構成して、紙面に分かりやすい形で定着させていくというのは
非常に難しい事なのです。
やっぱり事大主義なんですよ。中央と地方、あるいは今のような産業構造や、社会システムとしての周辺と地方という構図。
報道はそこを見事につかれたわけです。
皆さんは水俣病といってもよく分からないでしょうから、今から現場のスライドを見せて説明します。
(この後、現在の水俣の様子や、過去の水俣の生活の様子、水俣病患者の様子などのスライドを見せていただく。スライドを見ながら、水俣病の歴史を振り返ってみた。)
四日市のコンビナートの件についても触れると問題がさらにクリアになるのですが、時間が無いので触れません。
最後に整理をしておきたいと思います。環境・公害ジャーナリズムが何故アドボカシー、
つまり擁護報道をしてきたかということです。四日市の凄まじい公害を海上保安庁の警備課長として取り締まった、
田尻さんという有名な海上保安庁の役人がいます。彼は異動になって田辺の海難警備課長に転勤してきた。
そこで持ち前のファイトを持って四日市の大企業群に立ち向かうわけです。すでに訴訟が起きたり、
膨大な千人規模の患者が大気汚染で出てたんで、海は全く使い物にならなくて、魚は油臭くて売り物にならなかった。
そういう時代がずっと続いていたにも関わらず、新しい工場やコンビナートがあいつぎ作られていく。
そこで田尻は公務員としての正義感から、「この不公平は許せない」という事で徹底的に公害の摘発をしていくのですが、
次第に周りから孤立していくんですね。岩波新書で『四日市 油濁の海』というのがあるのでそれを読んでみるといいでしょう。
そこで田尻さんは、実際に四日市を取り締まった役人としてこういう風な事を言っているんですね。
これはまさに水俣にも通用する話でして、いまからそこを読んでみます。1960年代末に書かれたものです。
「公害と言うものの長い歴史を振り返ってみますと、学問や科学が結局のところ一部の例外を除いては企業の側に立ってきた。
あるいは企業との協力という形で際立った関わりあいを持ってきた。そういうものでないかと私は思います。
足を棒にして色んな研究機関や研究者を尋ねて援助を得ようとしている時に私は強く感じました。
公害の問題は一分野の科学・学問の力では手に負えない。あらゆる分野の専門家が集まって解けるものなのです。
学問や科学は書斎から出てもっと現場というものを大事にしなければならない。
そして学問や科学に従事する人たちは、自分達は何のために学問や科学に取り組んでいるのか、
という根本的の問いを自らに問うべきだと思うのです。問われているのはもちろん行政や学問ではない。
究極的にはそれぞれの日本の地域、生活している我々一人一人もまた、その生き方やあり方を問われているのです。
公害を通じて明らかになってきたのは長い間にわたる地方自治の停滞であり、
またその中でいつの間にか自己を見失いつつある地域の住民私達一人一人の姿なのです。
私達が自分を取り戻そうとするなら、公害は突破口なんだと私は感じます。生きる権利に対して迫りつつあるもの、
公害はその最大の敵の一つだ。私達はそれに対して腹の底から恐怖と怒りを感じて、自分自身が何をすべきか、
人間としてどう生きるべきかを自分に問いかけてみる。
その時自分の心の中に勃然として何かが生まれてくる。その意味でも戦いはまた心の中にあるのだと私は思います。
公害というものはこうして私達の新しい社会、新しい生き方を展望する一つの踏み台といえるのではないでしょうか。」
これが、田尻さんが四日市を去るにあたっての述懐であります。
この通りなんであります。私は、何故客観報道というものが実は極めて悪質な主観報道になるのかという事を、
皆さんに逆説的に訴えたい。それは、地域が誠に非民主的な雰囲気にある、行政は一切の情報を隠蔽する、
あるいは意図的に誤った情報を提供してくる。研究者が企業の都合のいいような事を言ってくるからです。
「何が一体客観的な事実なんだ」それが分からない。
しかし明らかに権威のある人や権威のある機関が発表すればそれを書かざるを得ない。
もしも記者会見に行ったのに記事を書かないと、「お前が書かないというなら、否定すべき理由を出せ。」と言われる。
しかしそんな事はお構いなしに、実際の情報の流れはこう(「現実の環境」→「環境のイメージ」→「人間の行動」)行く
わけです。これが肥大していきます。そして誤った情報に基づいた人間の行動が現実の社会の中で行われた時に
一体何が起こるかと。という事なんですね。
ですから、新聞などのジャーナリズムがかろうじてそういう状況に対して自己主張しようとするならば、
調査報道(investigative journalism)を行う事になる。例えば社会部が120人いたとすると、
三分の一は日常の勤務から外してあって、金融機関の不正の情報ですとか政府の不正行為、
それを調査するチームが常に三つ四つ動いてますね。それは全部自分達の責任で情報を集めて、
あるとき特ダネとして書くわけですね。もちろんそれ以外に普通の記者会見やなんかを聞いて記事を書く人もいる。
私はなにも政府や政党が意図的に嘘をついていると言っているわけではありません。
自分の存在が危うくなってきたときに、あるいは利益が圧倒的に公正を欠いたときに、
社会に起こるバイアスのかかった情報の操作、あるいは科学や学問を装った誤った情報の伝播というものが
現実にずっと存在してきたといっていい。それをそのまま報道するという事が、客観報道とされて良いはずがない。
だったら主観的に好き勝手書いてもいいかと言ったらそうではなくて、調査報道をやってしっかりと
あらゆる情報を集積した上で何が隠された事実であるかという事を知的に再構築していく、
それが環境ジャーナリズムの結論として目標とすべきものであると、いま強く感ずるのであります。
その過程で私達は多くの過ちを犯し、あるいは我々が持つ欠陥というものを突かれて、混乱に陥り、
事態を悪化させる原因を作ってしまった。環境報道は事実と真実を合致させ得たかと言えば、
我々は合致させようとずっと努力をしてきたけども、公正な世論の構成に貢献し得たかといえば、
過去を振り返って、必ずしもそうはいかなかったと言えるのであります。
アメリカ環境ジャーナリストの会
時間がなくなってきたのでこれで終わりますが、(レジュメの)最後のアジアとアメリカの環境ジャーナリストの会の話をちょっとします。
1994年、丁度戦後50年たって日本社会がこれからどういう方向に向かうんだというような議論をしているときに、
我々が50年間こういう報道をしてきた体験を、アジアの途上国の、まさに水俣病の再生産の危険の中にある
アジアの途上国の環境ジャーナリストに伝えようという動きが起こりました。
それ以来95年から我々が毎年相当なお金を集めまして毎年7,8人途上国の若い記者を日本に呼んで、半月くらい一緒に色んなところを歩き、外務省のODAの担当とか環境省の役人とか通産省の役人及び企業の幹部なりに会い、討論をやり現場を見て、「我々の近代化ってのは一体なんだったのか」「何故アジアが隠然とした反日感情を今でも持ち続けているというのか」「その原因っていうのは一体なんなのか」それを環境問題という観点から考えようと交流の努力を続けてきたわけです。
これは我々自身の社会の近代化の過程に対する反省であり、かつそれと同じ轍を踏み同じ発展のモデルを辿っているアジアの国々に対して、我々の側からの一つのメッセージを送ろうという風に位置付けていいわけです。
ニューヨークタイムズのシャビコフという記者がアメリカ環境ジャーナリズムの会というものを作りました。これは凄くパワフルで年一回の総会には大統領が挨拶に来るくらいの会です。何故そんなものを作ったかというと、色んな事を勉強しないと今の地球規模の環境問題なんてのは、社会の経済の構造から税から経済システムから、基本的な勉強がないとものが書けなくなってきたからです。チッソの時の話とは意味が違ってきたからです。今は時間がないからそのことは触れません。
もっと大事な事は、ニューヨークタイムズにおいてすら編集の幹部の価値観が19世紀のカウボーイ経済的だというのです。1990年の当時、未だに無限の成長というものがあり、好景況というものがあり、今までと同じ経済のシステムで世の中が動くと考えている。それが違うんだという事を、環境の現場から教え込むためにアメリカが環境ジャーナリズムの会を作ったというのです。
アメリカの環境ジャーナリスト達は私たちとの討論で「ジャーナリストは客観的でなければいけない。当事者じゃないのだから絶対にフィールドに口を挟んではいけない、観客席にいるべきだ。」と主張しました。大きな議論をやったんですよ。日本からも色んな人たちが参加して、議論して、彼らが最後に分かったって言ったのは、「お前らの言う客観報道が危ないというのは、その地域なり社会の民主化の度合いがアメリカと違ったからだ。」と。
今申し上げたように、「何が客観的か」というその客観性というものが全く保障されない。情報も未公開である。バイアスもかかっている。そこから流れてくるものを特ダネとして報道している間にも人が死んでいく、それを一体どう考えるんだと。アメリカにはそんなことはないと言うのです。本当にそうかは疑問ですがね。
というわけで、きれいに整頓して話す事は出来ませんでしたが、この後にゼミがあるようなので、そこで話を続けたいと思います。
今日の講義はこれで終わります。どうもありがとうございました。
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