はじめに
東南アジアにおける草の根レベルの資源管理といった研究をしています。資源管理の問題を国際的に考えてきた訳ですが、今日は学問の分かれ方が我々がものを見るときにどういう影響を及ぼしているのか、そしてみなさんが専門課程に進んでいくことが環境問題のような多様で大きい問題を考えていくのにどう影響するかという事を考えてもらいたいと思います。
今日のテーマは「分業」。分業についてみなさんあまり考えないとは思いますが、分業というのは今の社会を強く形作っている概念、仕組みだと思います。それに私たちは気付かないほどの影響を持っています。学問の流れというのも分業化というのはすすんでいて、それに対するアンチとして「専門バカ」とか戦後、教養学部学科ができた経緯というのがあります。環境とか資源の問題を考えるときに人口の数と資源の量を比べてどうこうという話は多いが、人と人との関係のされ方が資源や環境にどう影響しているか、逆に資源や環境の在り方が人と人との関係にどういう影響を与えているかという研究は未だ少ない。そういった現状だと思います。専門化が進んでいくのはいい面もあるが、それだけではなくて悪い面もある。過度な学問の分業が進んでいくことで見えなくなるものはどういうものかということを考えたいと思います。
特にみなさんの場合は東京大学にめでたく入学されて、みなさんが自分をどのような専門家にしていくのかっていうことをできるだけ早い段階で考える、これが重要で、後戻りがなかなかできにくいので今のうちに考えて下さい。
フレーミングとは
研究者とか、卒業論文でも何でも、研究していくというのはいろんな事実を集める、これは研究だけじゃなくてジャーナリストでもそうだし、普通の人だったらものを考えるときに、ファクトを集めるわけですが、どのようなファクト、どのような事実を重要なものとして参照するかというのは人によって違うわけです。専門性というのはどのようなカテゴリーの事実が重要で、それはこういう方法によって混沌とした事実の固まりから取り出すことができますよ、ということを体系的に教えてくれる、それがいまある専門というものだと思います。
今後ぜひみなさんに考えてもらいたい問題なんですけれども、世の中いろんな情報が飛び交っていて判断するのが難しくなっているのですが、結論を誰かに押しつけようとするのではなくて結論が落ちる範囲を決めるという巧妙な形の権力行使というのが行われている。これを私はフレーミングといっているのですが、フレーミングという考え方はどういうものかについて詳しくは文献リストの最初に「環境学の技法」という本にあるのでそちらを見て下さい。どういうことかいくつか例をお話しします。アマルティア・セン(Amartya Kumar Sen。1933-)という1998年にノーベル経済学賞を取った人が、東大に招待されて講演に来たんですね。で、彼がいろんな話をしたんですけれども、どうしても正しく答えられない質問という話をしていて、分かりやすい例なんですけれども、「あなたは奥さんに暴力を振るうのをいつやめたんですか」という質問に対しては、暴力を振るってない人はイエスともノーとも答えられない。「もうやめました」と言えばいままで暴力を振るっていたことになりますし、「まだやってます」といえばいまでも暴力を振るっていることになるので、前提自体が、暴力を振るっているという土俵、そういう設定の中で答えを期待している ので、この前提を所与とする限り、どんな答え方をしても正しく答えられない。世の中にはこういうタイプの質問の仕方、問いの出され方があるので、そういう問いの出され方に注意しなくてはいけないという話をしていました。
もうすこし私の調査・研究に引きつけて例を申し上げますと、みなさんの多くが信じているいわゆる「貧しい人ほど、環境破壊的である」、環境破壊的であるとは悪意を持ってという意味ではなくて資源が乏しくてあまり長期的な視点がとれないので仕方なく資源を食いつぶしてしまうんだ、という意味ですが、そういう言説が広く浸透していて、特に森林破壊、減少の分野では貧困というものが人口増加とかその他のファクターと併せ非常に重要な森林破壊の原因であると色々なところに書かれています。それで、これ、私ははなから疑っておりまして、その疑った結果どういう調査をし、どういう結論に至ったか、文献リストの二番目の本に書いてあります。たとえば、「どうすれば貧しい人々による森林破壊を食い止めることができるか」というような問いが出ている場合には、どう転んでも貧しい人々の振る舞いだけが議論の対象になる。彼らを教育した方が良いとか、市民をもっと援助しないといけないとか、貧しい人々の振る舞いが、土俵に乗るわけです。それが何を意味しているかというと、エリートとか権力がある人たちが何をしてきたかということは問われない、その土俵を採用する限り、そのような問いは提出されてこないということを意味している。私が今日みなさんにお勧めしたい考え方は、その枠組みそのものを問う、与えられた枠組みの中で上手に答えようとするのではなく、枠組みそのものを問う、というものです。枠組みそのものを問うとは、いまの場合例えば、「なぜ貧しい人々がそもそも森のそばにいるのか」という問いとか、「人々はなぜ貧しくなったのか」という問い。こういう問いをたてると、貧しい人々だけでなくてそれを取り巻いているエリートや権力者も議論の土俵に乗ってきます。これは枠組みをひろげることになって問題は複雑になりややこしくなりますけれども、すくなくともこれまでみんなが当たり前だと思っていた枠組みとは違う枠組みがそこで提供されることになります。
専門家というのはどうもこれまで、誰かに与えられた枠組みの中でそれを上手に効率的、効果的に解決することにどちらかというと「使われてきた」。枠組みそのものを問うとか、いま我々が当たり前のように取りかかっている問題が本当に取りかかるに値する問題なのかということを考える専門家はほとんどいない。数少ないけれども、最近のイラク問題で言えばチョムスキーという人がいて、彼はまさにいま与えられている、メディアが人々に信じ込ませているイラク問題の読み方が実は大間違いであることを私たちに教えてくれます。知識人というのは枠組みを定めているパワーにチャレンジ、それに揺さぶりをかける人たちで、専門家になって良いんだけれどもそういう自分が取り組んでいる枠がどうなっているかをぜひ問うて欲しい。それが私の言いたいこととの一つです。
間違った定説〜ギニアの森林の場合〜
さて、いつくか具体的な例を紹介します。
90年代後半に私のいる分野で一世を風靡した本がありまして、『misreading the afirican landscape』という本。イギリスの研究者たちが出した本で広く読まれて議論を巻き起こしました。衛星写真が本の表紙になっています。この赤い部分が森林なんですね。ここで問題になったのがなにかというと、この森林というのははたして減ってきたあと残った森林なのか、元々森林なんかなくて増えてきてここにこういう森が出来たのか、ということなんです。この一見とてもシンプルなクエスチョンがなぜ重大なインプリケーションを持っているかといいますと、もし昔はジャングルで人口が増え市場が経済化され、人々の資源を搾取する技術が向上したために、ジャングルがだんだん減ってきてこれしか森が残ってないとなれば地域の人々が森を破壊してきたので、政府としてはこの森を守るためには人々から資源を取り上げてそれを囲い込んだり国立公園にして入れないようにしたり、政府が独占的に資源を管理する、専門家をつれてきて科学的知見でこの森を管理するということが、正しく正当化される。
ところがもし、実はもとは荒廃したサバンナで、人々が植林したり様々な活動をすることによって木を増やし、森を増やしてきたとすると、政府が独占的に資源を管理するのはかえって逆効果、むしろ森を育ててきた人々に資源の管理権を返さなくてはいけないという全く逆の政策的なインプリケーションが導かれるわけです。
もちろん、アフリカのギニアという国の常識的な読み方は人口増加と市場経済化がかつて存在したジャングルを荒廃させたというもので、この写真の読み方だった。ところがこの本は様々なデータを組み合わせて、実は全く逆ですと。元々森はなくて、人々が家畜を飼うことで土壌を豊かにしそこに植物が植生したり、砂嵐から家や家畜を守るために植林したりした結果、森が育ってきたとこの本は主張しているわけです。もしこの本が正しくて我々が信じていた大体もとはジャングルで、それを人々が壊して今のような状態になっている、という常識が間違っているとすると、なんで事実に反することがこれだけ広く多くの人に信じ込まれるのかというクエスチョンが出てきます。
事実に反することが「定説」になるメカニズム
ではこの本が正しかったすると、事実に反することがなんで定説になるか、ということですが、著者たちは、みんなたまたま知らなかった、無知だったというわけではなく定説が力強く再生産されている、と言っています。ギニアの森林に携わる役人はこれまでもこれからも、常に資源はたとえば税収の対象、国庫を豊にしてくれる財源であるという発想があるからなんとかして村人から資源を取り上げるということを基本的に考える。ドナーとは援助ドナー、日本でいうと国際協力事業団とか、世界銀行とかですが、援助している機関も森林が増えてますというよりも「森林が減って困ってます」という方がプロジェクトを進めやすい。
コンサルタントもそういったドナーに雇われいますし、ドナーの役割を否定するようなレポートを書くとクビになったりもしますから基本的にドナーがこうあって欲しいというレポートを書きます。それに対して研究者が何をしていたかというと、森林の問題で導入される研究者というのは大体生態学、植物学、林学といった木とは話をするけれど、村人とは話をしないような専門家であった。そこでは村人がどう関わってきたか、というデータを誰も集めてこなかった。そこが完全に抜け落ちていました。著者たちは植民地時代の航空写真とか昔の宣教師が書いた地域の景観に関する旅行の記録とか衛星写真、等々を総合した上で「森はたしかに増えてきた」という結論を出した。どうもこういう状況を見ると、森が減ってきたという結論が仮に事実に反していてもそちらを好む人々の方が多い。それで、なぜここに村人が入っているかというと、もはやこういう定説になって、地域の学校でも教えられているそうなんですね。いつのまにか村人たちも「昔はジャングルだったけど人口が増え、資源利用がまして森林が減少した」と教え込まれるようになって村人自身も間違った定説をサポートするという逆説的なことがおこってしまった、とこの本は書いています。
ポイントは事実に反することが定説に積極的に支えられてきたというところです。それは悪意があってというよりも、みんなそれぞれが枠組みの中で一生懸命やるんだけれども、構造的に事実に反することにのっとることよって存在意義を正当化するような社会を創り出し、強化してきたということなのです。
学問の分業
分業、専門とはなにか
さてここでまた視点を大きく拡げて、学問の分業の話に行きたいと思います。『社会分業論』という本のなかでデュルケム(Emile Durkheim。フランスの代表的な社会哲学者。1858-1917。『自殺論』など)は
「2世紀以来の最も著名な学者が従事した研究の性質を明らかにしたときカンドールという人が次のように認めたのである。各学者にはほとんど常に2、3の名称を付さなければならない。たとえば天文学者にして物理学者であるとか、数学者、天文学者にして物理学者とか一般的名称のみを用いて哲学者とか自然科学者だとか。しかもそれだけでは十分でなかった、数学者と自然科学者と時として博学者、あるいは詩人であったりした。18世紀の末まで、こういうような偉大な知識人というのを一言で経済学者とか政治学者と言うことはとても難しくて何々学者であり何々学者であり何々学者というような呼び方をしないと呼べなかった。19世紀になるとそういった困難は極めてまれで、学者はもはや同時に種々の科学を研究しないだけでなく、一科学の全体でさえももはや包括的に研究していない。」
と言っています。経済学のごくごく一部をやっている人が経済学者という名称を用いているという時代になったわけです。これはいわゆる分業が学問に引き起こした一つの帰結だと思います。
アダム・スミスの定義に近いのですが、分業とは何かというと
●複雑な仕事を単純なものに分け、それぞれに特化することで生産効率を高めること。
といえます。レベルの高い社会は分業が進んでいて、もろもろの自立的な領域に分化しているという
社会認識が18世紀当時は常識であった。アダム・スミスの言う遅れた国では職人であったり農民であったり商売をしていたりするけれども、進んだ国になると職人は職人だけ、農民は農民だけをやっている。それが進んだ国の要件であると言っているわけです。
●ディシプリン=「考察の対象を、固定された境界をもつ実体として分類する作法」「教えることが可能」
先生から教えることができるものがディシプリン。教えることができないものはディシプリンとは呼ばないわけです。先輩が後輩に教え、先生が生徒に教えることで学問の伝統ができてくる。誰かに付いていく、追従するという意味でもあって、既にその専門分野を極めたと言われる人に付いていって追体験する。ディシプリンを身につけるとは、一種のフォローでもあります。
●内容の均質化(誰でも努力で一定レベルまではフォローできるようになる)=教科書の登場
具体的には教科書ができるというのがディシプリンとしてできているかの一つの基準となります。内容が均質化されてくると、とにかく努力して我慢して教科書さえ真面目に勉強すればその分野の一定のレベルまで達せられる、それを制度的に保証することをディシプリンはしてくれるわけですね。こういうような結果、いま私たちが慣れ親しんでいる経済学とか政治学といった個別科学というものが出来てきました。
科学的進歩・発見のパターン
では異分野の学問がどのように交流してきたかを科学の進歩・発見に見てみます。参考文献リストの最後の文献『Interactions』に、科学の発見は二つのメカニズムで起きる、ということが書いてあります。 アナロジーとホモロジーです。
アナロジー:機能が似てる
ホモロジー:形態が似てる
アナロジーというのは機能の類似、ホモロジーは構造が似ているものです。鳥の羽とコウモリの羽、形態構造は異なるが、飛ぶという機能は似ている。これはアナロジー。コウモリの羽は人間の腕に形状が類似している。これがホモロジー。実は歴史的にはいまでは分かれて口を聞かなくなった専門分野の間にもアナロジーとホモロジーによる科学的な進展があったのです。たとえば、ダーウィンの進化論がスペンサーの社会進化論に影響し、マルサスの人口論がダーウィン自然淘汰説に、アダム・スミス分業論がブラウン・セカード(フランス人の細胞学者)細胞機能論に、それぞれ大きな影響を与えました。
今ほとんど交流をしていない分野の間で非常に活発な交流があって非常に重要な発見がなされていた。境界で刺激的なやり取りが歴史上あって、今の学問ができてきたのです。人間というのは見たことがないものは、見たことがあるものに置き換えて解釈したり理解しようとする。見たことがないものを見たときにどれだけネタをもっているかが重要で、広ければ広いほど良い。だけど20世紀以降の専門家は持っているネタが限定されていて、かつての知識人のように色んな分野を広くアナロジーとホモロジーの対象として見ることができにくくなっていると言えます。20世紀以降はとくに同じ学問領域の中で、いわゆるオリジナリティが求められ、他の分野とは違います、ということを強調することで今の専門分野は深化してきた。他の分野と交流しないことを奨励する文化が大学内に芽生えてしまったといえるでしょう。
専門化の弊害
夏目漱石という人が博士号を東大から授与されそうになって、断ったという話を知っていますか。
私は博士は要りませんと言って断っています。
「人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切り詰められるので、恰も自ら好んで不具になるのと同じ結果だから、大きくいえば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支えないのであります。(中略)かの博士とか何とかいうものも同様であります。あなた方は博士というと諸事万端人間一切天地宇宙の事を皆知っているように思うかもしれないが全くその反対で、実は不具の不具の最も不具な発達を遂げたものが博士になるのです。それだから私は博士を断りました。(拍手)」(道楽と職業)
という具合です。そんなことを言っている。こんな感じでですね、その専門バカとか専門家なんて一つのことしか分かってないからダメだとか色んな事をみなさんも聞いたことあると思いますが、今日考えたいのはそういう陳腐な専門家批判でなく、専門家の使われ方ということを紹介しようと思います。
●専門家の使われ方(水俣病における専門家の使われ方:公害の起承転結)
私の尊敬する沖縄大学にいらっしゃった宇井純先生という方がいらっしゃって、文献リストに紹介した『公害における知の効用』という論考の中で先生は、
「1960年代までの日本の産業公害の歴史をを調べていて気が付いたことは公害問題の展開にはパターンが共通にある。公害が発見される、多くの場合その因果関係が判明するまでかなり時間と努力が必要になる。そしてようやく原因が突き止められて問題が解決するかのように見えるが、決してそれで決着が着くものではない。必ずどこからか第三者の権威と称するものがでてきて、本当の原因は別にあるという反論が提出される。この反論は質より量で必ずしも理論的な内容を持たなくてもよい。たくさんの反論がでてくるといつしか本当の原因はその中に埋もれて何が真実かが分からなくなってしまい、そのうちにその公害自体がニュースから忘れ去られてしまう。水俣病やイタイイタイ病のような多くの人が死んだ重大な事件でも、もっと小さな事件でも大体等しくこの四つの段階を経過するので、私はこれを公害の起承転結と呼んだ。」
と言っています。彼は水俣のとき専門家とか大学の教授と呼ばれる人たち、権威のある人たちがいかにチッソの会社とくっついて被害を拡大するのに加担してきたかということに対して徹底的に戦ってきた一人です。
専門家が行っている活動、研究の枠の中で客観性とか中立性維持していても、彼らの職業や権威とか書いた結果とかが、社会に決して中立ではない形でしばしば使われてしまうということは、環境問題の歴史を調べればすぐ分かることです。
●現場の問題に説明責任をもたない
もう一つ重要なこと、現場の問題に説明責任をもたないというのが専門家、研究者が批判される理由として
としてあげられる。専門家・研究者がどうやって出世していくかを考えてみると、基本的には論文が多い人が偉いとされて出世していくわけです。論文を誰が審査するかと言えば同業者が審査するわけで、同業者である研究仲間・コミニティーがうんと言えばいいもので、ダメと言えば悪いものだとなります。たとえば水俣病のように具体的な現場がある問題を調査して、それを水俣の被害者の人たちが評価するかというと、そういう立場にいないんですね。ですから、研究者が特定の現場について論文を書いてそれがその現場にとって役に立たなくても罰せられない。現場の評価を受ける仕組みにないわけですから、そういうことで専門家・研究者が現場から離れていってしまう。
いまある個別科学なり専門性が最近出てきた新しい問題群の性質にふさわしいかという事もあります。
●新しい問題群の性質
1多義的、重層的
2すばやい判断が必要
3データは不十分なことが多い
4利害が多様に絡み合っている
5予測できない
ギニアの森林の例で考えれば何が問題かという時点で意見が分かれるように多義的で、政府の役人とか村人とか研究者とかコンサルタントとかいろんな人が関わっていて重層的と言えます。十分にデータを集めている時間がなく、時間をかけても全てが分かるわけでなく、という具合に環境問題はこれにことごとくあてはまると思います。こういう問題に対していまのディシプリンがはたして十分対応できるかというと非常に心許ないと思います。
たとえば、先程私が紹介した宇井先生の論考の中で印象に残る文章があったのですが、宇井先生によれば「被害者による公害の認識は全身的であり総合的である。それに対し加害者である発生源の認識はせいぜい汚染物質の濃度や被害者の数といった数字で表現できる部分に限られている。」と。つまり同じ公害でもからだとかにおいとか、味、痛さ、感情とか全部で感じてる人と汚染物質の濃度測ったり、被害者何人出ましたと数えたりしてる人とでは公害とか水俣病とはなんであるかという認識の次元が全然違う。だから被害者と加害者の話を足して二で割ってもダメですよ、と。次元が違うのだから足して二で割れるようなそんな問題ではないという風に彼は言っています。
こういったことも新しい問題の性質を表していると思います。
本来の分業
では本来の分業とはどんなものか、というのはちょっと難しいですけど、ここでは問題に則してお互い学問がもっと協力しあうにはどうしたらいいか、というのに対してアイディアを出そうと思います。
●枠組みの力に敏感になること
●具体的な問題から発想すること。
●「専門性」ではなく、コミュニケーション能力の重視
●「規格」を無理に当てはめないこと。専門性のラベルだけを見ないこと(アイデンティティの複数性)
●専門の枠を超えることを励ます文化
みなさん結論がなんであるかには非常にこだわるんですけれども、むしろその範囲は誰が決めているか。枠が誰によって定義されているか、に敏感になること。敏感になることで、他の分野の人と話をするときに結論だけではなくてその分野ではどういう範囲の事実がなぜ重要視されるのかということを理解しようとする、自分もそれを説明しようとする、そういう力が必要だろうと思います。
それから、学問から発想するのではなくて具体的な問題から発想する。どこの国のどんな問題でもいいけども、具体的な問題というのはどろどろでぐちゃぐちゃになったものですから、当然いろんな学問分野が協力せざるを得なくなります。
また、コミュニケーション能力の重視。たとえば就職したりするときに一部の企業や研究所では専門性を気にするのですが、専門性というのは仕事をしてから覚えればいいし、仕事をしながら身に付いていくものであって大学時代とか大学院の初期の段階ではむしろコミュニケーション能力、つまり人に分かりやすく説明したり、他の分野と楽しく話をする力、そして他者の置かれている状況を想像してあげる力が決定的に重要ではないかと思います。これがないと、結局他の分野と融合だ統合だといってもそういうことは起こらないでしょう。
それから、規格を無理に当てはめない。人間というのは複数のアイデンティティを持っています。がちがちの経済学者に出会っても家に帰れば、お父さんであり、もしかしたら詩をかいているかもしれないし、アマチュアのテニスプレーヤーかもしれない。あの人は経済学者だからといって大学の専門性だけでその人のアイデンティティを決めない。色んなアイデンティティをもっていることを尊重するようなカルチャーを育てていく必要がある。
そして、これが最も重要だと思いますけれど、そもそもいろんな専門をまたいで越境していく人たちを励ます文化を育んでいく。まぁ特定の分野だけで論文書くことが評価されますが、いろんな分野でいろんな論文を書く人により高い評価をしていくとこういう人が育っていくかもしれません。
何を研究するべきか
さて、私自身が常日頃、自問自答していることなんですが、何を研究するべきかという事を考えてみます。
私は特に博士課程の段階では援助とか開発の対象となるような人々がどういう暮らしをしていてどういうような生存戦略をとっているかということを研究してきました。その時は私は声なき人々の声を拾い上げることが研究者が与えられている一つの社会的役割だと思っていた。
ギニアの例でも事実に反するような構造にみんなが依存している。そんな中、村人が結局は損をするような構造にチャレンジしていくのは研究者しかないと思うんですね。研究者というのは決して中立であるものではないですけれども、ドナーや役人に比べてまぁ比較的中立に近い立場にいると思って、声なき声を拾い上げることが仕事であると思っていました。
実は学生で駒場にいたとき、全学自由ゼミナールの第三世界ゼミというゼミで『なぜ世界の半分が飢えるのか』を読まされました。それから大学を卒業して十数年読んでいなかったんですが、この間そういえばむかし読まされたなぁと思って読んでいたら、次のような文句がありました。
「金を持っている者、力を持っている者を調べなさい。貧しい者、力のない者について調べてはいけない」(スーザン・ジョージ)
これがスーザン・ジョージのメッセージ。彼女はなぜ貧しいものを調べてはいけないと言っているかというと、貧しい者がどのようにしてサヴァイブしているかってことを調べてもそれは絶対悪い形で使われてしまう、と。権力によって悪いように利用されるだけだから、そういう研究はせずに、むしろ、研究の対象から免れてきた金持ちとか権力を持っている人をもっと調べなさい、と提言しているのです。これは非常に重い結論
で、これがあったからというわけでもないですが、現在の私はいまだにタイをフィールドにしていて、村人が
森から何を取ってきて何を食べているとかそういう研究はひとまず置いておいて、森林、土地に関する政策が役所の中でどんな情報によって決まっているか、という研究をするようになりました。やってみて感じるのは
そういう研究は非常に少ないということです。弱い人、貧しい人に関する研究はものすごいあるんだけれど、政府の中でどう決まっていくかの研究は全然ない。でもそれは当たり前といえば当たり前です。力を持っている人たちは情報を隠したりする力も持っていますから。こういう風に私のキャリアでも何を研究するかというのは変わってきました。
何を研究し何を研究しないかということは一見みなさんの自由であるかと思えますが、かなり限定されてきます。是非注意をして自分はなぜこういう分野を研究したり考えたりするのか、自覚的に考えて欲しいと思います。みなさん学生ですから、学生が何を研究しようが世の中に大して影響ないと思うかもしれませんがみなさんがやることは先生にも、友人にも影響を与えるので皆さんが何を調べ、何を調べないか、ということはとても重要であると認識してもらいたいと思います。
●学問のアカウンタビリティ:誰に対して答えるのか、誰を説得したいのか。
そして、学問のアカウンタビリティを考えなければいけないと思います。自分の研究は誰の問いに対しているのか、自分は誰を説得したくて研究しているのか、誰に向けて自分は調査・研究のエネルギーを注いでいるのか。今までの研究者の答は簡単で、名目上は世界の平和とか貧しい人が世界で少しでも減るようにとか色んなこと言いますけれど、実質的には同業者、自分の審査員をうんと言わせる、そこに応えることに神経を集中しています。そうではなくて、現場で問題を抱えている人たちに対してアカウンタブルな研究というのを創っていく必要があるだろうと思います。
まとめ
時間もなくなってきたのでまとめに入ります。
●なぜ学融合でなくなったのか
●「何ができるのか」という「結論」にとらわれるな。
●事実が争われているのか、それともその背後にある利害か?
新領域創成科学科ではバラバラになっている学問を融合させて問題に対処できるように結びつけるか、さかんに議論されています。しかし大事な質問はひょっとするとどのように学融合を進めるかということではなくて、「なぜ学融合的でなくなったのか?」ではないのでしょうか。私が先程言ったように、もともと学問は学融合的でアナロジーとホモロジーを使いながら生物学だろうが、経済学だろうがお互いにアイディアを貸し借りしながら発展してきた。それが学問の歴史だったが、どうしてそうあることをやめてしまったのか。その部分がはっきりしないとこれからどうやって学融合を進めるかということに見通しが得られないのではないか。
二番目のポイントはもう言いましたが、「何ができるのか」という「結論」にとらわれるな。議論の枠組み(できることの幅)を決めている力に目を配れ、ということです。
最後のポイント。たとえば汚染物質の濃度がどれくらいかとか、一見すると事実が争われている場合でも、違うことが争われている場合があります。もし利害が争われている場合だと、データを厳密にしていくという作戦は的はずれで、なぜならかならずそれに反対するデータを誰かが出してくるからです。どれだけデータを厳密にしてみても。環境問題というのは複雑であいまいなものですから、データを厳密にして一つだけ正しい答えに辿り着こうという方法がかならずしも通用しない場面が出てきます。その時に、争われているのは事実ではなくて、利害ではないかという発想を持ってもらいたい。そうすると背後ではどんな人たちがどういう事実を欲しがっているのか?事実にどうあって欲しいのか、というところに目配りがきくようになるでしょう。
最後に、私の今日の話は多少専門性を批判するような立場からお話をしましたが、専門の勉強をするなというのではなくて、専門を大いに勉強して下さい、と。だけれども、これから学ぶであろう専門分野が歴史的にどういう風に成り立ってきたのかを考えて下さい。みなさんがどんな分野を学ぶにしても、その分野の歴史をたどってみれば、かならず他の分野との交流があって、だからこそ今の分野ができてきているということが分かると思います。
あるいは、みなさんが学ぶ学問がどういう社会的ニーズに応えるために大学にできたのかを考える。それも専門で勉強する理由をはっきりさせるのに役に立つと思います。そういう学問の歴史というものを勉強することによって、他の分野に対する敬意や尊敬、多様であることに対する理解とかそういうものが育まれればみなさんが自分の分野と異なる人に出くわしても楽しく話ができて、色んなアイディアの貸し借りができるようになる、そんな日が来るのではないでしょうか。
最後に、教養学部での過ごし方が君たちがこれからどのような「事実」を重んじるかを定める上で決定的である。諸君の検討を祈ります。
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