環境の世紀IX  [HOME] > [講義録] > 環境にかかわる意思決定はいかにあるべきか再考−公共空間の創出

HOME
講義録
教官紹介
過去の講義録
掲示板
当サイトについて





環境にかかわる意思決定はいかにあるべきか再考−公共空間の創出



7月12日 廣野喜幸

自己紹介

 私は最初、哲学者として出発し、デカルトについて論文を書いていた。しかし慢性声帯炎のため大きい声が出せないので大成しないと思い、元々関心があった自然保護をやりたいと考えて理学系研究科の生物学に移った。そこではシロアリとゴキブリの進化の研究を行い、1990年にはその研究で博士号を取った。しかしやはりそもそも関心があったのは、生態学というより自然保護であった。講師紹介冊子に書いたように、貴重な生物がどんどんいなくなっていくということが私にとっては問題だったからだ。生態学の研究を続けるうちに、環境倫理学という、環境保護につながる学問の分野の研究も始めた。学者になるつもりはなかったのだが、数年間高校や予備校に勤務した後に大学で生態学の講師となった。しかし今とは異なり保全生態学という分野もなく、自然保護活動との隔たりを感じていた。1960年代に生態学という分野が、自然保護に生かしていこうとする人々と学問として大成しようとする人々との二派に分かれてしまったため、学問としての生態学と自然保護はつながらない時代もあった。しかしつながる部分はある。

廣野喜幸

例.環境収容力

 生態学の研究で、ゴキブリをシャーレで飼育していたことがある。ゴキブリの子供はS字曲線を描いて増えていく。もしここでゴキブリを退治したいと思って殺虫剤を使い全滅させたとしても、またゴキブリは外から入ってきて同じ数になる(住宅などの場合。シャーレではもちろんない)。これはその場所の環境収容力が下がっていないからである。環境収容力を下げるには、さらにゴキブリをその場所に入れ過剰にするのが効果的である。逆に、これは鮭の稚魚やカブトガニの場合などにいえることだが、環境収容力が低い場所にいくら放流しても数は増えないのである。


環境問題とは

環境問題とトレードオフ

 「環境問題はそんな簡単な問題じゃないんだということを受講生に伝えたい。自分は高校生の時には問題を単純に考えすぎていた。しかし大学の授業を受けて、問題はそんな簡単でないということを知った。環境問題にはトレードオフがあるのだということを知ってもらうことで、環境問題の難しさを分かってもらいたい。」
(環境三四郎HPより、講義協力責任者の一人松本暁義さん)

 こう考えていることは偉いと思う。自分は自然保護運動に関わるところでこのことを実感している。
 環境と経済は対立しない、という考え方もある。この考え方は必ずしも間違ってはいないが、やはり環境と経済の両立は難しく、そこにはトレードオフが存在する。環境問題が『問題』であるゆえんは何か? それは解決が容易でないからであり、解決が容易でないのは意思決定が難しいからである。ではなぜ意思決定は難しいのだろうか?
理由としては
 (1)原因・被害が不確実・不確定である
 (2)国際問題である
 (3)当事者・利害関係者も曖昧である
 (4)問題自体を一義的に確認できない →フレーミング効果
 (特にエコノミストとエコロジストの隔たり)
などがあげられる。

地球環境問題と公害問題との違い

 元々広い意味での環境問題として私たちのあいだに溶け込んできたのは、1960年代中心に認知された『公害問題』。水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくの四大公害病がその代表例である。この問題は今でも『問題』として存在している。しかし、公害問題の特徴としてあげられる点は、これが人間の病気という形で出現したため、誰がどんなふうに病気なのか確定でき、最終的にはその原因まで解明できるということである。
 ところが地球環境問題は不確実性が非常に高い。私が主に取り組んでいるのは種の多様性の減少・生態系の減少だが、これらの他にも砂漠の増大・オゾンホール拡大・廃棄物(核廃棄物)・地球温暖化・エネルギーなどの問題がある。例えば、住先生は授業で温暖化モデルを用いて、やはり温暖化は真実だというお話をなさっていたが、その背景には、温暖化の審議や原因についての論争がいまだ存在しているということがある。「温暖化は人間のせいだろうが証拠はない」というのが、私を含めた科学者の直感だと思う。IPCCの論文は、そのままでは何も対策が進まないから「温暖化は人間のせいだ」と思い切って結論づけた希有な例である。このように地球環境問題は、公害問題に比べれば、本当に被害が起こっているのかどうか・その被害の原因は何か・原因を人間が除去できるか、などの事柄に関して、不確実性が格段に高いのである。よって現在は、推測に従って国際的な対策がすすんでいるのだといえる。
 さらにいうと、公害問題は国内問題であり、地球環境問題は国際問題である点も指摘できる。国際社会システムは国民国家・主権国家システムであり、最終的な決定権は国が持っている。国際問題をどう解決するかというシステムは、国内問題を解決するシステムに比べ、脆弱なのである。また、公害問題は加害者と被害者および運動の方向性が明確であったが、地球環境問題は当事者・利害関係者が曖昧である。


例:イギリスの少年とマハティール首相

 当事者としての問題は、熱帯雨林の木がなくなると菌類もなくなり、その結果、温暖化で伝染病が増えても、新たな抗生物質が作られない、ということである。
 しかし、被害を受けるのは我々ではない=当事者がいない?
 ここで、「木にも『当事者適格』がある」と考える(cf.ストーン「木の当事者適格」)。
この考え方から言うと、未来世代が当事者といえるかもしれないし、切られる木が当事者といえるかもしれない(cf.日本でも、奄美のクロウサギやカブトガニについてこの「当事者適格」を用いて守ろうという動きがあったが、いずれも認められなかった)。
 さて、ここで両者が問題としているのは何か。
  イギリスの少年:生物多様性と環境的不公正(cf.長崎大学戸田清『環境的公正』)
  マハティール首相:経済的メリット

 地球環境問題は、人によって見る側面が異なる。そこから、さらに自分が重要だと思うことを取り出してくる。つまり、価値観の対立が起こる。マックス・ウェーバーはこの価値観の対立を「神々の争い」と呼び、終わることのない争いだとした。地球温暖化の問題も、基本はこれと同じである(cf.レスター・ブラウン『エコエコロジー』…エコノミーとエコロジーは両極端の価値とした)。

実践の時代とは

 慶應義塾大学に岸由二先生という生態学者がいる。この人は、神奈川県の小網代で開発計画が持ち上がったときに、自然保護運動をやらず、かわりに市役所の人々と一緒に計画を見直した。そして、核心部の自然は残すが、周辺部は開発するという計画にした。結果自然の貴重な部分は守られた。
 この例からも考えられるように、自然保護運動をするばかりでは不十分であり、会話でいかに意思決定するかということが重要なのである。人々の生活は確実に保証しなくてはいけないから、会話で意思決定をしていかないと、守りたい自然は全部ダメになってしまう。
小宮山先生は「警鐘の時代は終わって、これからは実践の時代である」と言った。私にすれば、「警鐘の時代」は自然保護運動の時代であり、「実践の時代」はいかに妥協し協調するかという時代である。

環境と経済

 環境と経済はなかなか両立しない。両立しうるとしてもそれは簡単ではないから、現在両立していないのである。両立しうると考えても、なぜそれが難しいのかをきちんと把握しておかなくてはいけない。

経済の基本的な考え方
需要曲線(消費者の側):価格が安いほど数量が多くなる、つまり買う人が多くなる。

供給曲線(企業の側):価格が高ければ高いほど数量を多く作りたい。

ここで、生産費用曲線とは、生産するのにかかるコストを示す。よって企業はコストと売り上げ(価格)の差(利潤)が最大となるように生産量を決定する。

また、「価格が上がる」ということ(グラフでは売り上げ線の傾きが大きくなること)は、利潤が増加するということなので、価格が上がると生産量は増加する。

同じグラフ上で示すと、需要と供給が釣り合う点が、消費者にとっても企業にとっても効用(メリット)が高い。この均衡点以外だと、両者のうちどちらかに不満が出る。このようにして価格と数量が決まっていく。政府が価格を制限したりすると、かえって不満が出ることになる。

 各人が、全体の調和を考えず、自分の満足する状態を追求しても結局全体の調和は取れる、というのが市場メカニズムである(cf.アダム・スミス「神の見えざる手」)。
 経済学の分野には市場万能主義者と呼ばれる人々がいて、競争がないと改革がありえず、市場メカニズムにすべて任せるべきだと主張する。しかし、一般的に経済学者は、市場メカニズムに任せておくだけではうまくいかないこともあると認めている。市場メカニズムが失敗する場合は四つあり、費用低減産業(自然独占)、外部性、公共財、不完全情報である。
 環境にとって問題となるのは「外部性」である。技術革新があってコストも価格も下がり、消費者の満足度も上がる。しかしそのかわり、工場から環境汚染物質が出てくる可能性もある。このとき、企業が対策を講じなければコストはかからないが、社会は汚染という形で損失を受ける。グラフの上に環境に関する線を加えるのは難しいのである。だから、環境についての事柄も加えられるように経済学を作り直そう、とする立場を倉阪先生たちはとっている。
 ゲーム理論の一つに「囚人のジレンマ」という理論があって、この理論では、二人の人間が自分にとって良い方向へと合理的に推論を重ねていったら、両者にとってあまり良くない結果に終わってしまう。この「囚人のジレンマ」を発展させたものに「共有地(コモンズ)の悲劇」がある。「共有地の悲劇」では共有の放牧場を考える。自分の牛を何頭そこに放牧するのが得かと考えると、最大限放牧するのが一番良い。そのためどの農家も自分の所有する牛を最大限放牧するが、利潤は数頭だけ放牧したときより少なくなる。これは自分の利得を追求しても全体の調和は取れないという、市場メカニズムとは逆の結末になる。これはおかしいではないか。
 例として、古紙リサイクルを考えてみる。現在は需要が供給を下回り、価格がゼロ以下になってしまっている。買われなかった古紙はリサイクルされずに廃棄され、環境問題となってしまう。今の経済学の図式では、環境問題をうまく扱えない。
 また、環境問題の内部にトレードオフは存在する。例えば、車の燃費向上でCO2が減ったら、かわりにNoxが増える。したがって、車の燃費が向上すると地球温暖化問題は改善されるが、酸性雨問題は悪化する。そうして環境保全をする側にも対立が生じてくる。さらにいうと、燃費向上のために用いられる鉄でない軽い部品はリサイクルできないので、廃棄物問題へつながる。また、焼却炉についても同様で、高性能でない焼却炉では、燃やせばダイオキシンが出るが、燃やさなければゴミ問題になる。

最後に

 環境保全をすることが経済的利益になるような社会システムの成立が必要だ。そうす れば、楽になるどころかいらなくなる。そのような社会システムはどうやったら作れるだろうか。
 また、環境と経済の対立がどうしてもとけないときはどうしたらいいだろうか。このようなときは、手続き合理性をふまえた上で、フレーミングをできるだけ共有化し、倫理原則(環境的公正)にもとらないように物事を決めていくしかない。今日の講義の題名は「環境にかかわる意思決定はいかにあるべきか再考」だが、私にはこれに対しての答はまだわからない。しかし、意思決定を行う際にはフレーミングの共有をしなくてはいけない、ということはわかっている。当事者は大体フレーミングが異なっているとは気付かないからだ。フレーミングの共有とは、同じフレーミングを持つことでなく、互いのフレーミングの違いを認識することである。そして手続き合理性をふまえるとは、参加者がそれぞれ発言権などの平等な権利を持って決めることができることである。
 しかし、このような意思決定の公共空間は日本に存在しているだろうか? 創り出すことから始めなくてはいけないなら、前途遼遠である。なぜかというと、フレーミングがなっていない例がいくらでも見られるからだ。

例1.吉野川可動堰
 専門家が堤防を越える推量を計算し、七人のうち六人が大雨のとき水が堤防からあふれると結論づけた。しかし、その計算値は全員違う。また、委員会メンバーの中で市民に一番近い立場にあるのは町長で、実際に洪水の被害を被る住民の代表は参加していない。

例2.厚生省のエイズ研究班員
 加熱製剤は導入しなくてもいい、という結論を出したが、これは一番の利害関係者である、血友病患者でエイズになってしまうかもしれない人々がメンバーに入っていないからである、

 このように、意思決定の場は行政関係者と学識経験者によって構成され、一番の利害関係者が入っていないことが往々にしてある。こういうところでは、フレーミングもなにもなく、意思決定に公共空間が使われていない。この日本的システムを直さねばいけない。

本当の最後に

 難しいけど、でもやらないといけないから、みなさんもご一緒にがんばりましょう。


質疑応答

受講生:パブリックコメントなどの試みはどう思いますか?
廣野先生:表面的にはとてもいいことだが、寄せられた意見がすべて公表されるのかに不安が残る。

廣野先生:なぜ環境保全は金儲けにつながらないのか?
丸山先生:「共有地の悲劇」では、個人個人は合理性に従っていても、全体としての調和はとれない。これはそもそも市場原理の問題ではなく、市場原理がないことによる悲劇なのである。市場に入る人はプラスの価格が付いた商品を所有しているのに対し、放牧場には無料で入れるから商品とならない。ここで、放牧場に所有者がいて、入るたびにお金を取るのだったら、これは商品(市場)経済となる。よって経済学者が「共有地の悲劇」を解決しようとするとき、まずは所有権を設定する。つまり、国有か私有(こちらの方が合理的)の所有権を設定する。よって環境問題の解決を経済学者として考えると、まずは自然を資本として考えること。
廣野先生:しかし大気全体の所有権など決めるのは難しい。また、森を所有していても、そこに住む動物たちを所有しているわけではないのに、森を減らすことによって動物を減らす権利を持っていいのか。
丸山先生:所有する以上は管理責任を負うという新しい倫理を考えなくてはいけない。所有するということを、何をどこまで所有しているのかと突き詰めて考えていくことによって、経済学者風の解決以外の道が開けるのではないだろうか。
go top