例.環境収容力
生態学の研究で、ゴキブリをシャーレで飼育していたことがある。ゴキブリの子供はS字曲線を描いて増えていく。もしここでゴキブリを退治したいと思って殺虫剤を使い全滅させたとしても、またゴキブリは外から入ってきて同じ数になる(住宅などの場合。シャーレではもちろんない)。これはその場所の環境収容力が下がっていないからである。環境収容力を下げるには、さらにゴキブリをその場所に入れ過剰にするのが効果的である。逆に、これは鮭の稚魚やカブトガニの場合などにいえることだが、環境収容力が低い場所にいくら放流しても数は増えないのである。
環境問題とは
環境問題とトレードオフ
「環境問題はそんな簡単な問題じゃないんだということを受講生に伝えたい。自分は高校生の時には問題を単純に考えすぎていた。しかし大学の授業を受けて、問題はそんな簡単でないということを知った。環境問題にはトレードオフがあるのだということを知ってもらうことで、環境問題の難しさを分かってもらいたい。」
(環境三四郎HPより、講義協力責任者の一人松本暁義さん)
こう考えていることは偉いと思う。自分は自然保護運動に関わるところでこのことを実感している。
環境と経済は対立しない、という考え方もある。この考え方は必ずしも間違ってはいないが、やはり環境と経済の両立は難しく、そこにはトレードオフが存在する。環境問題が『問題』であるゆえんは何か? それは解決が容易でないからであり、解決が容易でないのは意思決定が難しいからである。ではなぜ意思決定は難しいのだろうか?
理由としては
(1)原因・被害が不確実・不確定である
(2)国際問題である
(3)当事者・利害関係者も曖昧である
(4)問題自体を一義的に確認できない →フレーミング効果
(特にエコノミストとエコロジストの隔たり)
などがあげられる。
地球環境問題と公害問題との違い
元々広い意味での環境問題として私たちのあいだに溶け込んできたのは、1960年代中心に認知された『公害問題』。水俣病・イタイイタイ病・四日市ぜんそくの四大公害病がその代表例である。この問題は今でも『問題』として存在している。しかし、公害問題の特徴としてあげられる点は、これが人間の病気という形で出現したため、誰がどんなふうに病気なのか確定でき、最終的にはその原因まで解明できるということである。
ところが地球環境問題は不確実性が非常に高い。私が主に取り組んでいるのは種の多様性の減少・生態系の減少だが、これらの他にも砂漠の増大・オゾンホール拡大・廃棄物(核廃棄物)・地球温暖化・エネルギーなどの問題がある。例えば、住先生は授業で温暖化モデルを用いて、やはり温暖化は真実だというお話をなさっていたが、その背景には、温暖化の審議や原因についての論争がいまだ存在しているということがある。「温暖化は人間のせいだろうが証拠はない」というのが、私を含めた科学者の直感だと思う。IPCCの論文は、そのままでは何も対策が進まないから「温暖化は人間のせいだ」と思い切って結論づけた希有な例である。このように地球環境問題は、公害問題に比べれば、本当に被害が起こっているのかどうか・その被害の原因は何か・原因を人間が除去できるか、などの事柄に関して、不確実性が格段に高いのである。よって現在は、推測に従って国際的な対策がすすんでいるのだといえる。
さらにいうと、公害問題は国内問題であり、地球環境問題は国際問題である点も指摘できる。国際社会システムは国民国家・主権国家システムであり、最終的な決定権は国が持っている。国際問題をどう解決するかというシステムは、国内問題を解決するシステムに比べ、脆弱なのである。また、公害問題は加害者と被害者および運動の方向性が明確であったが、地球環境問題は当事者・利害関係者が曖昧である。
例:イギリスの少年とマハティール首相
当事者としての問題は、熱帯雨林の木がなくなると菌類もなくなり、その結果、温暖化で伝染病が増えても、新たな抗生物質が作られない、ということである。
しかし、被害を受けるのは我々ではない=当事者がいない?
ここで、「木にも『当事者適格』がある」と考える(cf.ストーン「木の当事者適格」)。
この考え方から言うと、未来世代が当事者といえるかもしれないし、切られる木が当事者といえるかもしれない(cf.日本でも、奄美のクロウサギやカブトガニについてこの「当事者適格」を用いて守ろうという動きがあったが、いずれも認められなかった)。
さて、ここで両者が問題としているのは何か。
イギリスの少年:生物多様性と環境的不公正(cf.長崎大学戸田清『環境的公正』)
マハティール首相:経済的メリット
地球環境問題は、人によって見る側面が異なる。そこから、さらに自分が重要だと思うことを取り出してくる。つまり、価値観の対立が起こる。マックス・ウェーバーはこの価値観の対立を「神々の争い」と呼び、終わることのない争いだとした。地球温暖化の問題も、基本はこれと同じである(cf.レスター・ブラウン『エコエコロジー』…エコノミーとエコロジーは両極端の価値とした)。
実践の時代とは
慶應義塾大学に岸由二先生という生態学者がいる。この人は、神奈川県の小網代で開発計画が持ち上がったときに、自然保護運動をやらず、かわりに市役所の人々と一緒に計画を見直した。そして、核心部の自然は残すが、周辺部は開発するという計画にした。結果自然の貴重な部分は守られた。
この例からも考えられるように、自然保護運動をするばかりでは不十分であり、会話でいかに意思決定するかということが重要なのである。人々の生活は確実に保証しなくてはいけないから、会話で意思決定をしていかないと、守りたい自然は全部ダメになってしまう。
小宮山先生は「警鐘の時代は終わって、これからは実践の時代である」と言った。私にすれば、「警鐘の時代」は自然保護運動の時代であり、「実践の時代」はいかに妥協し協調するかという時代である。
環境と経済
環境と経済はなかなか両立しない。両立しうるとしてもそれは簡単ではないから、現在両立していないのである。両立しうると考えても、なぜそれが難しいのかをきちんと把握しておかなくてはいけない。
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