2)「自然保護」「環境保護」といっても、そもそも、どのような「自然」、どのような
「環境」が守られるべきなのか。
(1) 1970年代頃には、自然にはなるべく手を加えずに潜在植生にもどすのがよしとされた。
しかし今日の保全生態学では、手を加えることも否定しない。
また、潜在植生よりも、価値や文化に重点がある。
例:三保の松原の場合
海岸の厳しい条件でこそ遷移が止まってマツの林になっている。
環境が変わるとその条件も変わってくる。条件がよくなれば遷移が
進んで「松原」ではなくなる可能性もある。
そのときに、手を入れるべきかどうか、手を入れるとしてもどのような手を入れるべき
か。素晴らしい自然だから保全すべきだというのは通るのだろうか。
全く手をつけなければ、守りたかった自然が変わっていってしま
う可能性がある。そこで手を入れるのが正しいのかそうでないのか。
例:所沢の三富新田の平地林の場合
300年前の開拓の時代の時に、もともと火山灰地だったやせた土地の武蔵野台地にナラを植え、
落ち葉を堆肥として利用するため
に平地林ができた。しかし現在では化学肥料の普及により、
わざわざ雑木林を管理する人が少なくなり、荒廃し、資材置き場やさらに
産廃の処理場などができている。人の手が入らなくなってきれいに管理された雑木林がなくなった。
この時に自然保護と人間の介入は
どう考えたらいいのか。
例:移入種の問題
生物多様性の保護を考えたら移入種は排除したほういいということになる。
それは人間が手を加えるということでもある。しかし、
自然には手を加えない方がいいなら、移入種が入ってきてもそのまま放置すべきだ、ということになる。
また、生物多様性の保全の目的のために、移入種を捕獲して安楽死させるべきか。
その辺りはかなり深刻な倫理的問題を抱えてい
る。早急に環境倫理学の方で論点を整理すべきだと思われる。
(2) 従来は、自然科学においては、極力、「価値」を排除すべきであると考えられてきた。
しかし、保全生態学は、科学と価値と
いう問題に新たな問題提起をしていると思われる。
科学と価値の狭間
自然科学的知見のみで≪保全≫の方向性は示されえるのか?
≪保全≫を目的にすることで、科学に価値を導入せざるを得なくなった。
もともと自然科学は、価値判断を排除しようとしてきたが、
「どういう自然を守るのか?」という問いを前に、保全生態学は、価
値の問題を考えないわけにはいかなくなった。
生物多様性における≪価値≫(生物多様性国家戦略から)
- 人間生存の母体として
進化論的にも、人間は自然の中から出てきた。
生物としての人間の母体である生物多様性を守るべき、という考え方。
- 有用性の源泉として
絶滅していく生物の中に、ガンの特攻薬など未知の有用成分になるなど
役立つものがあるかもしれないから保全すべき、という
ような功利主義的価値。
- 世代を超えた安全性・効率性(広い意味での)として
短期的な有用性ではなく、未来世代のことも考え、ロングレンジな視点から、
安全性、効率性の観点から生物多様性の価値を考
える。
- 文化の根源として
文化を支えるものとしての自然、という価値。
生物多様性を守ることは文化の多様性、歴史的資産、地域の固有性を守ることに
なる。
人間の生物学的基盤と、精神的な基盤=文化が、
生物多様性を考えるうえで同時に論じられているのが新しい状況である。
そのこと
が国家戦略の中で堂々と扱われるようになったことは感慨深い
3) 「持続(永続)可能な社会」が希求されていますが、
そもそも、何が「持続(永続)可能」であるべきなのでしょうか。
また、どのようにそれを実現すべきでしょうか?
環境にかかわる意思決定はどのようにしたら良いか?
例:セレンゲティ国立公園とイコマの人たち
(岩井雪乃さんの調査研究から)
タンザニアのセレンゲティ国立公園、その一部に深く食い込むようにして先住民イコマの居住地がある。
イコマの人たちにとって国
立公園は地理的に近いにもかかわらず、かかわることができないという意味で「遠い」存在である。
公園内のヌーが大移動の際イコマ居住区を横切ることがある。もともと狩猟民族であるイコマの人々は
狩猟によって捕らえることが
ある。しかし、ヌーは絶滅危惧種なので、野生動物保護の視点からこの狩猟は批判され、
法的にも密猟として取り締まりを受けてい
る。しかし、考えてみると、ヌーが減ったのは狩猟のためではなく、植民地時代からの先進国の開発が
その生息地を奪ったためではな
いだろうか。先進国は、今までさんざん自然を収奪したことを反省して、
人間中心主義を克服して人間非中心主義を提起し、自然その
ものをそのままの形で無条件に守るべきだと主張するが、
そのことによって、一方的に先住民の人たちの野生動物の「利用」を制限す
ることは正しいのだろうか。
この事例には、以下のような問題点がある。
- 野生動物保護と、狩猟=生活(生業/文化)との対立をどう考えるか。
- 野生動物の管理、保護はどうあるべきか?
- 国立公園(National Park)=「自然は人間から切り離して保護」
という欧米の環境倫理に基づくものであったが、それに対して文
化的、歴史的相対化の必要性があるのではないか。
- イコマの人たちにとって狩猟の「権利」はないのか?
(非西洋文化圏における倫理のあり方をどう考えるか?)
- 「誰が」決めるべきなのか?(自然科学者なのか、先住民の人たちなのか....)
- そもそも、普遍的な自然保護の論理はあるのか?(多元主義と普遍主義の狭間の中で)
例:吉野川十番堰の可動堰計画問題と住民投票
江戸時代に作られた堰の老朽化に伴い、コンピュータ制御の可動堰にしようとする計画。
徳島市の住民投票をめぐって──当時の中山建設大臣は住民投票を批判、「民主主義の誤動作」と言った。
これには、古いタイプの発想が見え隠れする
- 国家(官僚)、専門家が決めるべきだという発想
パターナリズム(家父長的温情主義)
=自然科学による、客観的、普遍的基準
専門知識のない住民のために、国が全部取り計らって計画決定
- 非専門家(素人) layman は決定に参加できないのか?
「住民投票」は「民主主義の誤動作」=知識のない住民の票が
専門的知識の必要な事業を左右するのは問題であるとの建設省側の
発想
- 先進的な非専門家 lay expert 最近ではそのような人たちが増えてきている。
NPOなど、専門家ではないが専門的知識も持っていて行政と対等に話せる存在の出現
その中で、いったい、誰が決めるのか?
→従来の国家・専門家によるパターナリズムへの疑問
地域住民が「200年に一度の洪水災害なら甘受するから、可動堰などなく川とかかわっていきたい」と
主張した場合、「洪水は絶対
に起こさない、そのために可動堰は不可欠」とする国家のパターナリズムの論理は崩れる
このことは、地域社会のあり方を地域住民がどのように決めていきたいのか、
川とどのようにかかわっていきたいのかということに
関係している。その決定の主体として、非専門家である地域住民がいかなる合意形成のあり方、
決定のあり方をとっていくのかが問わ
れている。
4) 何が持続可能であるべきか?
持続可能性をいかに実現するのか?
持続可能性をいかに実現するのか?
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全体の一元的管理
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ローカルシステム
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人間の生活の 持続可能性
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(国際)法による強制・権力を背景にした管理
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循環システム
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人間の自然との関係性の持続可能性
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ゾーニング
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ローカルな利用や関わりの重視
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2.環境思想の歴史的視点からこの問題を思想的に捉える
──環境思想の歴史的な2つの転換点
1) 人間中心主義の克服――環境主義の成立
- 1970年代からの新しい運動
ディープ・エコロジー(生命圏平等主義:生命圏内の全ての生物は平等、人間は特権を持たない)
動物の解放(人間による動物虐待への疑問)
自然の権利運動(自然物の当事者適格:動物や植物、自然物自体に裁判を起こす権利を認める)などの出現
- 自然の価値に関する議論
「道具的価値」(自然は利用できるから価値がある)
→「本質的価値」(自然そのものに本質的に価値がある)
原生自然(wilderness)の価値が見出される
(手付かずの自然は、人間が利用することと関係なくそれ自体に価値がある、という考え方)
=環境倫理の「価値論的アプローチ」
2) 環境正義の提起──社会的公正へ
1990年代(1992年地球サミット以後)
- 南北問題と先住民問題
イコマ、アイヌ、ネイティブアメリカン…自然と共生する文化は評価されても、彼ら自身の権利は守られない現状
- 原生自然の保護の見直し
- 二次的自然への関心(里山の保全)
手が付いた自然は価値がないのか?
アジアなど第三世界において人間によって利用されてきた二次的自然の価値が見なおされる
=原生自然を中心としたそれまでの自然保護への疑問
- 生物多様性保護における地域主義
- 生活/生業への関心
いずれも、人間が利用する、自然とかかわる、ということが中心にある
=環境倫理の「関係論的アプローチ」
*「環境正義の原理」(1991、全米有色人種環境運動指導者サミットで採択)から
- 母なる大地の神聖さ、すべての生物種の生態的な統一性と独立性を確保することの権利
- 永続可能な形で生きるために大地や再生可能な資源を責任ある形で利用する権利
- 環境享受権−空気、土地、水、食料
- すべての人々の相互の尊厳と正義に基づき、差別を廃した公共政策
- 政治的、経済的、文化的、環境的な自己決定
- アセスメント、計画、実施における同等な参加
- 未来世代に対する責任
人間による自然の利用、先住民への先進国からのパターナリズムの排除をも組み込んでいる
社会的公正も考慮し、豊かさということを根本的に考えていく姿勢
普遍的な持続性だけでなく、社会的な関係や人間の精神的な部分も重視
3.環境倫理学の現在
1) 環境倫理学における3つの要素
環境持続性(environmental sustainability)→我慢すること?
社会的公正(social equity)→我慢が特定の人に偏るのはおかしい!
(例:セレンゲティ国立公園におけるイコマの人たち)
存在の豊かさ(ontological richness)→生き生きと生きることにより環境の豊かさも守られるあり方が理想
2) 関係論的アプローチによる人間と自然とのかかわりのあり方
社会的リンク論
宗教的・文化的リンク(自然との精神的関わり)と経済的・社会的リンク(自然を利用する関わり)
- 自然共生的伝統社会に見られる<生身>の関係では
、2つのリンクは不可分に関わり合っている=かかわりの全体性
(例:遊牧民族が、飼っていた家畜を食べるとき宗教儀礼を行う)
- 近代的産業活動
=「社会的・経済的リンク」のみで「文化的・宗教的リンク」が切れている、「自然からの一方的収奪」
【自然からの一方的収奪】
- ・近代的「自然保護」概念
=「文化的・宗教的リンク」のみで「社会的・経済的リンク」が切れている、
「利用を排除した「自然保護」」
【利用を排除した「自然保護」】
→どちらも根本的には同じ<切り身>の関係である=かかわりの部分性
精神性と経済性のともにある関係の回復が目標
(昔に帰れ、ということではなく、新しいシステムで2つのリンクをつなげる…産地直送、援農などの試み)
3) 伝統と近代−動的文化論
途上国、先住民の文化や社会のあり方が固定的に語られる…
「自然を伝統的に利用していればいい、近代的技術や市場原理に任せて
はいけない」という捉え方
→自然利用の権利/制限を誰が決めるのか?
→参加と自己決定を基調とした合意形成のあり方
(パターナリズムの排除)
*「伝統」も動くものである
4.環境にかかわる意思決定はいかにあるべきか
1) どのように合意形成を行うか?
→「学び」の視点――自然と歴史・文化の学びに基づいた、合意形成のダイナミズム
外から来た「よそ者」が、地域の自然・歴史・文化について学ぼうとする
→地域の人が触発されて、これまで見向きもしなかったその土地の自然・歴史・文化を再発見
=人間と自然との新たな関係の「生
成」
2) 動的文化論・正義・自己決定―いかに決定していくべきか―
(1)伝統文化の認識――「学び」の重要性
(2)保全にかかわる制度、文化の再整理
日本では伝統的に、入会地(共有地)の永続的利用のため、各地域で厳しい取り決めを作り管理していた
→「自然の保全」という視点から制度を再構成(ルースなコモンズからタイトなコモンズへ)
(3)利用と保全にかかわるメタレベルの枠組み
「地域の人々の「自然を利用する権利」を強調しすぎれば、皆が野放図に使い出して崩壊する危険性
→地域の人々が決定してなおかつうまく保全していくために、上位のレベルの基準が必要
(4)参加と自己決定――新しい文化、社会の創成へ(動的文化論)
3) 政策決定における二つの位相――環境にかかわる意思決定はいかにあるべきか
1.普遍主義的決定――唯一解
専門家によるパターナリスティックな決定
←普遍的な原理(自然科学/客観的合理的基準)に依拠している
地域の人々の実質的権利(災害からの安全性など)の保証
2.多元主義的決定――複数解
ローカルな状況の中で、構成員による合意による決定
ローカルなネゴシエイション(交渉)による合意形成
←メタレベル(上位)での普遍的な原理に依拠
手続き的権利の保証
何を守るべきか、がまずあるのではなく、守るべきしくみによって初めて、
何を守るべきか、何が永続的なのかが決まってくる。目
標が初めからあるのではなく、手続き的なプロセスによって初めて決定における正義が得られる。
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