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舩橋 晴俊




氏名

舩橋 晴俊(Hunabashi Harutoshi)

所属

法政大学社会学科

参考文献

1.舩橋晴俊編「講座 環境社会学 第2巻 加害・被害と解決過程」有斐閣 2001年6月出版予定
2.共著「政府の失敗の社会学」 2001年4月〜5月出版予定
    内容 政府の公的債務の問題を、政府の肥大化と民主主義の統治能力の喪失という観点から論じる。
3.舩橋晴俊著「社会制御過程の社会学」北樹社 
    内容 舩橋先生が法政大学で担当されている環境社会学と社会計画論から、実証的かつ理論的に社会制御過程を論じる。具体的な事例としては東京ゴミ戦争など。
4.共著「むつ小川原開発と核燃料サイクル施設−巨大地域開発の構想と帰結」有斐閣 
5.舩橋晴俊著「環境社会学−社会的ジレンマとしての環境問題」出版社・時期とも未定?
    内容 先生のこれまでの研究の集大成となる予定

講義内容要旨

 日本における環境問題は概ね2つの時期に分かれるように思われる。従って、2つの時期により研究も異なってくるし、異なる理論装置が必要になってくる。第1は、公害・開発問題期であり、第2は1980年代後半以降の、環境問題の普遍化期である。
 前者における問題の把握枠組には、支配システム論・受益圏・受苦圏論などがある。一方後者の把握枠組は以下の3点にある。講義ではこの3点に沿って、環境問題を論じていく。
 第1は、社会的ジレンマである。第2が、環境負荷の外部転嫁論である。第3が、「環境高負荷随伴的な構造化された選択肢」への「個々の主体」の巻き込みである。
    註:これらの言葉の定義については、先生の著書を参考にすること

 まとめれば、今日の環境問題の特徴は、環境負荷の発生源の拡散性と個々の環境負荷発生の微小性及び無自覚性にある。個々の主体の行為自体は、微小な環境負荷しか発生させないが、それらが累積すると長期的には破滅的な結果をもたらすのである。このような環境を悪化させているメカニズムを説明するのが、社会的ジレンマである。この発想は、ハーディンの「コモンズの悲劇」に大きな示唆を受けている。ハーディンに対しては、人種差別者だという批判もあるが(註:救命艇の論理)、私は彼の唱えたこの概念を高く評価したい。これは、個々の主体が、自分の利益を求めるという私的に合理的な行動を取っている結果、集合財の悪化という破滅的な結果をもたらすというものである。彼はこの現象を「悲劇」という言葉を使って説明する。この「悲劇」という言葉が本質をついているように私には思われる。この言葉には、その行為をせざるを得ないのに破局に向かっていってしまうという必然性、つまり物事の論理の結果として破局が生じる、というインプリケーションがあるように思えてならないのだ。
 集合財(collective goods)と公共財(public goods)の違いは、前褐「講座環境社会学第1巻」の第2章(舩橋担当分)P57註4にきちんとした説明を置いたので参照してほしい。集合財というのは、一定のCapacityを超えると競合性が生じるような財である。具体的な例としては道路などを挙げられよう。
 私は、社会的ジレンマという概念を使って、普遍化期の環境問題を7つの類型に分類した。コモンズの悲劇のこの類型に当てはめると、自己回帰型である。つまり、受益圏と受苦圏が一致し、なおかつ生産者・消費者が一致するため、最も解決がなされやすい。逆に、講義で扱う予定の「放射性廃棄物」問題は、加害型ジレンマに属し、最も解決しにくい問題である(「講座 環境社会学第1巻」第2章P46の図を参照のこと)。こうした問題の解決に何より必要なのは、社会的規範の設定である。
 (部屋の電灯を指して)例えば、この部屋の明かりは、単純に考えて30%ぐらいは原発によって供給されており、私たちが電気を使うことは、極微小ではあっても、放射性廃棄物の発生をもたらす。私たちが、環境負荷を発生させような悪意をもっているわけではないが、電力を利用することは必然的に放射性廃棄物を生むのである。これが「構造化された選択肢」の意味である。名古屋新幹線公害を例にとって説明しよう。東京から名古屋に向かうには、一見様々な選択肢があるように見える。しかし、コストとベネフィットを考えれば、新幹線以外に選択肢はない。新幹線の乗客のほとんどは、沿線住民を苦しめようなどといった悪意をもっているわけではない。しかし、新幹線の利用が、公害に加担していることは事実なのである。
 注意してもらいたいのは、社会的ジレンマとは、今日の環境問題に主として当てはまる理論装置だということだ。1人1人の環境負荷発生量は微小なのにもかかわらず、累積すると破滅的な結果をもたらすという問題にはよく当てはまるだろう。だから、公害・開発問題に無理に当てはめるとかえって問題の構造を曖昧にしてしまう。水俣病のような問題は、社会的ジレンマというよりもむしろ、政治システムにおける支配関係の問題として捉 えるべきだ。


環境問題を考えることになったきっかけ

 振り返ってみると、自己の本来性を探求していくうちに、段々と環境問題に焦点が絞られてきたように思う。研究者にとって、一番大事なのは、自分にとっての問題を定義することではないだろうか。


環境問題の定義とは

 人間の社会活動や消費活動によって、環境が利用され、環境に影響が及ぼされる過程において、生物にとっての生存条件が悪化し、とりわけ人間の生存と生活にとっての必要若しくは望ましい環境が悪化したり破壊されたりして、人々の健康や生活に悪影響が及んでいること、あるいは、悪影響が及ぶ恐れが生じていること


環境の定義とは

 人間を取り囲み、人間の生存と生活を支え可能にするとともに、様々な文化的な意味を帯びた自然及び物的条件の総体であり、原生的な自然環境、人為的な介入によって加工・変形された自然環境、人為的に作られた建築物・施設などの物的環境のすべて(飯島伸子・舩橋晴俊ら編「講座環境社会学」第1巻 第2章p30中段、有斐閣、2001)


講義までに学生に考えてきてほしいこと

(1)今日の環境問題を捉える際に、「皆が加害者で皆が被害者だ」という言い方がなされるこ とがあるが、はたしてその言い方は適切だろうか。
(2)理論研究と具体的な事実研究を進めていく際に、両者の関係をどのように考えるべきか。


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