立石裕二 文学部行動文化学科4年 『アッティカの大気汚染』古代ギリシア・ローマの環境破壊』 K-ヴィルヘルム・ヴェーバー著 野田倬訳 1996年 鳥影社 本書は、古代ギリシア・ローマ時代の環境問題について書かれたもの。古代における環境破壊の事実はもちろんだが、それに加えて、当人たちがそれをどう捉えていたのか、という思考・思想の問題も扱っているのが面白い。環境史の基本文献は『緑の世界史』(ポンティング著、朝日新聞社)で、これは名著だが、昔の人々の考え方については、あまり踏み込んではいない。しかし、古代の人々も環境問題について考えていた。そのことは、本書を読めばよくわかる。プリニウスは、山を崩壊させる「残酷きわまりない」金採掘について、「勝者として工夫たちは、自然の瓦解を見つめる」と批判する。そのうえで「しかし今日に至るまで、まだ黄金は手に入っていない」と続けている。自然を破壊し、勝者として見つめるが、しかし実は期待したような成果はない。これは現代の環境破壊についても言えることだ。また、レアティン人たちは、テヴェレ河の流れを変える工事に反対して、「一番いいのは、人類の幸福のために自然が手配したこと」だと主張したとされる。レアティン人は、テヴェレ河の改修で被害を受けそうな地域に住んでいた。ギリシア・ローマ時代を今から振り返って面白いのは、当時の発言がどういう意図で行われたのか、が手に取るようにわかることだ。こうしたことは、自分がその中にいる現代ではわかりづらい。それと同時に、現在は多くの問題が環境問題として一括りにされているが、当時はそんなことはなかった。そのため著述家たちは、それぞれの問題について、「エコロジー」という便利な言葉を使わずに、エコロジー的政策の良さを擁護しなければならなかった。われわれが曖昧にしがちなところを、なんとか論証しようとしているのを見るのは、少なくとも私にとってはけっこうタメになった。こうした点で本書は、われわれが自分の姿を反省する上で、よい手がかりになるのではないかと思う。 『「買ってはいけない」は嘘である』『所沢ダイオキシン報道』
この2冊は、一緒に読むと面白い。『嘘である』の著者は、「ダイオキシン猛毒説の虚構」という雑誌記事で、当時盛り上がっていたダイオキシン報道を激烈に批判した批評家であり、これは本書にも収録されている。 著者の記事が出たあとで、リスク論研究者の中西準子氏も、ほぼ同じ立場にたってダイオキシン報道の過熱ぶりを批判している。学術的な議論は中西氏のほうが精緻だが、何が問題で何が論点なのかは、日垣氏の論文のほうが鮮明になっている。『所沢ダイオキシン報道』の著者は、日垣氏の論文に対して、さまざまな点で激烈な反批判をしている。それとともに、いわゆるテレ朝報道の問題についても、その責任追及のありようの歪みかたを批判している。二人の論点は、科学的なものから、スポーツ新聞的なものまで多岐に渡る。私が読んで正しいと思うものもあれば、間違っていると思うものもある。どちらが正しいと一概に決めることはできないが、両者を読み比べると、なにが正しいのか、そしてわれわれはどうすればよいのか、いろいろ考えさせられる。両者とも、「所沢の産業廃棄物はひどすぎるので、どうにかするべきだ」という点では共通しているのに、なぜこれだけ対立するにいたったのか。その要点は、主張を展開するときの方法論にある、と私は感じた。日垣氏は、現実を変えるには、最も問題のあるところだけを批判するのが効果的だと考えている。いっぽう、横田氏は、現実を変えるためには、問題が重大で広汎に渡ることを強調したほうが効果的だと考えている。それでは、われわれは、自らの主張をどういう形で展開するべきなのだろうか?どちらの本もきわめて好戦的で、毒気に満ちているので、いささか辟易するし、自分がこうなりたいとは思わないが、中立性を装った文章にはない何かしらの真実があると思う。たまには、こういう論争的な本を読んでみるのも一興。なによりいい刺激になる。最後に、三四郎もダイオキシン問題の調査をやっている。その調査報告書と照らし合わせると、この2冊のとっているスタンスの利点と欠点が、ますます鮮明になると思う。 ■『科学技術社会学の理論』松本三和夫著、1998年、木鐸社 社会学で環境問題を扱おうとするとき、可能なアプローチはいくつもある。社会運動の研究や開発問題の研究が主な潮流だが、科学技術と社会の関係という視点から環境問題を研究することもできる。そのための手がかりとして有用なのが本書である。1〜3章は科学社会学の理論的な話で環境問題とはかかわらないが、4章以降の実証的な部分では、環境問題とかかわる事項を扱っている。 科学技術と環境問題についてはいくつか類書があるが、それらと比べて本書が優れているのは、科学的知見や技術的応用を抽象的なものとして捉えず、科学技術を徹頭徹尾、具体的な科学者・技術者の営みとして捉えようとする視点である。環境問題と科学技術の関係と言うとき、科学技術は偏った捉えかたをされがちだ。片方には、科学技術の工学的イメージ、つまり技術的解決・公害のイメージがあり、反対側には、科学技術の理学的イメージ、つまり規制科学・リスク管理のイメージがある。しかし、両者は簡単に切り分けられるものではないし、なによりこうした見方は、問題を抽象化しすぎだ。たとえば、流行のリスク論は基本的に規制科学であるが、もともとは原子力発電所の安全管理という工学的な由来を持っており、いまでも原子力発電所の建設を納得させるために用いられる。特に本書で取り上げられているような巨大プロジェクトでは、理学的な側面と工学的な側面は渾然一体となっている。第4章では、フロンの問題が扱われている。フロンによるオゾンホールが発見されたのは1984年であるが、奇しくも同じ年に、海洋温度差発電という環境保護のための技術として、フロンの特許が認められていたという事実が扱われている。そこから著者は、最新の科学技術の行き着く先は、誰にもわからないのだということを例証している。第5章では、原子力発電の問題が扱われる。とくにスリーマイル島事故と高木仁三郎。高木仁三郎は、実際の事故の経過をかなりの部分で予測していたが、他方で、米国で行われていたリスク・アセスメントの優れた点を見落とし、一方的に非難していた。ここから、著者は外部にいる人間のほうが事態は見えやすいが、その外部者は内部の資料と外部の資料の両方を、対等に扱わないといけない、と主張している。こうして著者は、正確な科学情報はないのだという前提に立って、科学技術の進路を制御するために、第三者による評価の回路を確保することが重要だと結論する。本書の記述には冗長な部分が多く、曖昧な点もかなりある。また、ここでは述べないが、著者の立場には多くの点で私は反対だ。しかし、そこで扱われている問題は重要である。そして、よく調べられている。科学技術と環境問題について考える際のよい手がかりになると思う。 |