環境教育の歴史
さて私の4つの柱が環境科学とどのように関係するのかという話ですが。
日本では1960年代後半から70年代のひどい公害に直面し、心ある先生方が工夫をして公害教育を用意しました。源流は、1964年の三島沼津コンビナート反対運動の成功です。高校の先生が中心になり「自分たちの科学・住民の科学」を提示しました。例えば、コンビナートを作った時に出てくる煙の広がり方を予測するために、五月に鯉のぼりの向きを高校生が調査したことがありました。そして、それを環境アセスメントに利用しました。
このように学校の可能性が認識され広まっていきましたが、このような公害教育運動は文部省にとっては反体制であり煙たいものだったので、公害教育は体制側からにらまれてずいぶん苦労しました。1968年に、熊本の中学校の本田先生が初めて水俣病を教材に取り上げました。それに対する教育委員会の反応は強烈なものでした。「そのような暗い問題を何故生徒に教えるのか。」といわれた。それに対して本田先生は「明るい公害と言うものがあるのならば教えてください。それを生徒に教えますから。」といって教育委員会を詰まらせたということもありました。そのような圧迫をはねのけて、なんとか公害教育は続いています。
これに対して、1972年にストックホルムで国連環境会議があり、そこで環境教育の重要性が決議されました。加盟各国は環境教育をやる義務が生じたわけですが、そこで文部省が打ち出したのは公害に触れない環境教育としての自然保護教育でした。それはこれまでの自然保護の流れに乗って多少は展開しましたが、伸び悩みました。73年の石油ショック以降の慢性の不況で、世論は環境より食うほうが先だということになりました。それ以来の約20年間、日本は「環境問題における失われた20年」に突入します。
日本の公害政策
日本の公害の経験は欧米に比べて約10年早いが、それに対してきちんとした手を打ってこなかった。それは、資本主義国でしかも財界の金をもらって生きている自民党が支配層として続いてきたためだ。日本の政府が伝統的に取ってきた公害対策は次のような政策だった。公害が起こった時、最初は被害者の声を無視する。無視ができなくなると、心配するなという。しかし心配しなくてはならないくらい被害が蓄積すると、最小限の対応をする。そこで東京大学が使われた。例えば水俣病の場合、漁民乱入事件があったあとにわずかの保証金がきた。一方で、東京大学の権威を利用して水俣病は工場排水が原因でないという切り崩しにかかった。そのような経過のくり返しであった。
従って日本の公害対策は物理学で言うrelaxation(緩和現象)の積み重ねであったと思います。
歴史と責任
例えば、環境法の勉強は法律の先生を呼んでくればできるでしょう。しかし私は、その背景にある「どのようにしてその法律が歴史の中で発生してきたのか」ということを絶対に忘れてはいけないと思うのです。
私は、1970年から1971年にかけて公害に関する論文を2年間に800本、他の仕事の合間に読みました。時間がない中であるため斜め読みをするしかありませんでしたが、その中で読むに値する論文には二つの条件があることがわかりました。一つは、公害の歴史について触れていること。二つ目は、科学者の責任について触れていることです。私の経験からは言えば、歴史と責任について書かれていない本は終わりまで読んでみてもあまり得るものがないと思います。ちょうど今は環境問題の第二次ブームであり、皆さんは環境問題を勉強するにあたって多くの本の中からの選択を迫られると思います。
いわゆる理系分野の論文の大部分は、歴史と責任について触れていません。現実にもそのような例をみることができます。例えば、白金から早稲田に移転した国立予防医学研究所です。この中では伝染病の病原体を扱うため、高度の防護施設が必要になります。しかし、そのような施設が完全に動くとは限らない。従って、そのような危険な施設を街なかに作ってはならないはずなのに、その中にいる研究者で危険だという内部告白をしたのは、600人中一人しかいない。これが現実です。
科学者と言われる人間が、どれほど自分の利益のために良心を曲げるか。国立大学の教員には身分保障があり研究の自由があるにもかかわらず、水俣病に関する研究をした人は東京大学では私ぐらいです。これは大変なことだと思います。むしろ医学部の教授などは大学からお金をもらって水俣病のもみ消しに荷担をしていた。田宮委員会はチッソとの板挟みの中、水俣病の原因をプランクトンにあるとした報告書を出しました。これは現在残っている唯一の文書です。ぜひ見てみてください。それくらい日本の科学は体制べったりになっているのです。
環境問題の教科書づくり
皆さんは、そのような国立大学で今から学問を学ぶわけです。そこで皆さんに勧めたいのは、教科書を作ってみたらどうか、というものです。最低限これだけは抑えておかないといけないという客観的な事実があります。水俣病の歴史も客観的な事実です。水俣病もみ消しに東京大学が荷担したこと、また有限の世界での生物の個体数の変化などです。
日本の「失われた20年」の間に、アメリカではこんな環境問題の教科書を作っていました。様々な事実が図面・写真入りで懇切丁寧に説明されてあります。教科書を作るといっても、最初は薄っぺらいものでしょうし、一人では作れません。しかし皆さんには「何も知らない」という強みがあります。「何を知りたいのか」さえあれば、今の東京にはそれにきちんと答えられる先生がいます。疑問点は、そのような先生に教えてもらえばよいでしょう。
今出ている環境科学の教科書はテクニカルな内容がほとんどで、現実の公害のことは捨象されています。
銀行型学習と問題解決型学習
ということで、今の若い皆さんが自分の問題意識で勉強するのが一番よいと思います。それはもう一つ別の経験があるからです。大学までに受けてきた教育は、できるだけ知識を詰め込んで、それを必要な時に取り出すことを目指してきました。端から見ていたパウロ・フレイレという教授は、このような勉強法は銀行型学習だと言っています。それでは使い物にならない。一方彼は、ブラジルのスラムで識字教育をする上で、問題解決型学習というものを編み出しました。それぞれにとって一番大切な問題は何か、そのためにはどうすればよいか、と考えていくものです。スラムでまず出てくる問題は貧困。いくら働いても儲からないのは搾取のため。これは経済を学べばわかる。女性にとっては暴力が一番の問題。それは植民地の歴史を勉強すればわかる。問題解決型学習とは、このような学習です。
今ではインターネットなどの技術が発達していますが、インターネットを使って情報収集をしていると、人生の半分ぐらいを無駄遣いしてしまったなあと思っています。そのために、我々は世界がどのように成っているのかという世界像を必要とします。つまりは、教養です。歴史や責任については特にそうです。これを私に教えてくれたのは、イバン・イリイチというメキシコの哲学者です。支配者の学問は歴史を必要としない。その場その場を切り抜ければいいからだ。ただし、支配される側の学問は歴史を必要とする。「なぜそうなったのか」ということについて主体として考えなければならないからである。
矛盾点にこそ真実がある
皆さんが知らないといけないのは、情報の洪水のなかでどの情報が信用できるかを知ることです。公害の因果関係を調べていくと、いろんな情報が出てきます。その中で、一致するものはたいしたことないのです。矛盾した情報こそがおもしろいのです。矛盾している情報について掘り下げていくとそこに真実があります。
水俣病の因果関係を調べていった時に、熊本大学は原因は工場排水の中の水銀だとしたが、東京工大の清浦教授は腐った魚だといった。その根拠は、日本中の各地を調べると水銀の多い場所はたくさんあり、そこで水俣病は発生していないからだ。社会的に混乱を引き起こすからその場所は言えないという。この対立した意見のどちらが正しいのか。清浦先生は化学工業をバックにつけていたが、関係者から聞き出したところ対象地は直江津だった。直江津には水俣と同じアセトアルデヒド工場があったため、清浦教授は場所を伏せたのです。私にとって水俣病の因果関係は、この事実で証明されたと思いました。もう一つは、細川先生の水俣病を発病させたネコ実験です。この二つがあれば、工場排水で水俣病が起こったということは証明されたと思います。それに気がついたのは、矛盾していたからなのです。同様のことが足尾鉱毒事件でもいわれていました。
矛盾しているような事例についてどちらが正しいのかわからない時は、両方正しいとしたらどうなるのか、一方だけが正しいとしたらどうなるのかという思考実験を試みるとよい。思考実験により真実が見えてくる、いろんなことが分かってくると思います。
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