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駒場の学生にできること

私のしてきた4つの仕事

6月15日 宇井純

  このように皆さんの前で話をするのは、実は長いこと考えられないことでした。私はかつて、東大工学部の都市工学科の助手を21年間つとめていました。助手が教授の命令なしに自分で講義を用意して学生に聞かせることは、制度上できませんでした。教授会の申し合わせという確かめようのない制限のおかげで、私は21年助手をやりながら学生実験担当助手という極めて制限された場を除いては一切学生にさわることができなかった。しかし、そのような場所のなかでいろいろなことを試みた一端を、91年にNHK人間大学の一連の講義で話しました。「水が生活の中でどのように我々生命に関わるか」という話に始まる、公害問題をも含む内容です。これが私の仕事の一つです。

 もうひとつは、下水を処理して再利用するという下水処理の実験研究です。これは今でも続いています。私が自分で化学実験を初めてやったのは、小学生の2年生でした。ジャガイモをつぶしてデンプンをとるとか、それにヨウ素をかけると色が変わるなどの実験です。当時は毎日が驚きであり、楽しみであった。そのことから始まって化学を志し、この教養学部では化学部に入り化学のおもしろさを勉強しました。そして、卒業して当時ちょうど生産が始まったばかりの塩化ビニル(PBC)の生産に飛び込んだ、そういう年代です。今でも水処理の実験は続いておりまして、沖縄大学(しばしば国立の琉球大学と間違えられ、侮辱を感じますが)という、小さな化学実験室ができたのが十年前という大学にいます。そこでは、これは日本の最先端だと思いますが、豚や牛の畜産排水を無希釈で処理し、それを肥料などに利用するという実験をしています。実験屋としての60年のキャリアが私の二つ目の仕事です。

 しかしその仕事の中で水俣病にぶつかりました。これはどうしてもほっておけない問題だと思いまして、それまでの化学工学のプラスチックの加工研究から土木工学の排水処理に転科しました。そこで博士課程を過ごし、東大の助手になりました。ケーススタディとしての水俣病、そこから始まり日本・世界の公害をずっと調べてきました。これが私の仕事における三本目の柱です。

 そうやって調べてきたことを学生に教えるよう教授から命令が出たのが、1970年です。但し、公害の技術的な側面に限るように条件が付きました。私はそれを拒否し、自分の調べたことなら報告できると答えました。しかし助手は独自に講義を開き、学生に教えることができません。ドイツの大学に昔からあったシステムに、大学を出て学者になろうと志した若い研究者が大学周辺に部屋を借りて、市民・学生向けの講義を開く。それが好評だと教授会もその人を教授に昇格させて仲間に入れる、というものがあります。私はそのような講義を日本でもやってみたのです。国立大学の教室というのは夜は空いていますから、そこで市民に呼びかけて「公害原論」という自主講座を開きました。幸い大変な成功を収め、1970年から85年まで続きました。86年に私が沖縄大学に移ったため、残念ながら閉講せざるを得なかったのですが。環境教育あるいは社会教育の試みとして、一つの仕事をやったなと思っています。


宇井純

複数の専門分野を持て

 このような4つの分野について私は取り組んできました。
 そこで若い学生さんに勧めたいことは、複数の研究テーマを持つことです。なぜかというと、一つの分野で行き詰まった時に他の分野に逃げることができるからです。特に大学院の博士課程は、今振り返ってみても非常にきつい制度です。一つの分野に取り組んでいると必ず波がありまして、大きな壁にぶつかります。そういうときに他のテーマがないと大変苦しんでしまいます。私も廃水処理で行き詰まると水俣へ行き、患者に勇気づけられて戻ってきました。


研究費について

 私は実験を続けて60年になります。これぐらいの経験がある人はそういないと思います。実験には一種の麻薬作用があり、一度やり出したらやめられなくなります。そして、しばしば夢中になるあまり周りが見えなくなりがちです。大部分の科学者はそのような人です。
 水俣病が起こった当時、日本の科学者の中で水俣病を何とかせねばと考えた人間は、ほとんどいなかった。また当時はマルクス主義が流行でして、九州の端で起こった事件などに取り組んでいると世界が見えなくなる、というのが私の周辺の人たちのだいたいの反応でした。

 しかし私は水俣病の患者を見てしまったものですから、水俣病から逃げられません。さらに、あまりにも悲惨な事件であるため、それをテーマとして研究費を請求する気になれない。実際これまでに、国から研究費をもらったことはありません。全部自分の金を使うか、国際会議の招待で行くなどでした。しかしこれは、あとあと大きなプラスになるのです。なぜなら、人の金で外国に行くのはつまらないです。やめた方がいい。自前で行くのであれば、少しでも多くのことをつかんでいこうとして帰ります。例えば、ヨーロッパに下水処理の研究をしに国の金で行った研究者や議員は数万になります。しかし、視察をして下水管と処理場の前後関係という肝心なポイントに気がついた人は、五万人中五人といない。
 研究というのは原則的には自費でやるのがよい。そのほうが、政治的な要素に縛られなくてよい。40年経ってみると、当時マルクス主義にとらわれていた人たちはほとんど消え去りました。


1テーマで10年研究せよ

 水俣病を掘り下げれば向こうに世界が見えてくると信じた私は、予想通り水俣病を通して世界をみることができた。みなさんも、これが大切だと思ったことを10年やれば、飯を食えるようになります。20年やれば、世界の最先端に出られます。もしそうでなければ、研究テーマが悪いからです。教授から与えられたテーマなのでしょう。そのようにして一生無駄にしたような人を何人も見てきました。私のいた都市工学科では、東大闘争で一流二流は外へ出ていき、三流四流が大学に残っていきました。この打撃は、今でも回復できません。


教養学部の重要性

 レイチェルカーソンの"Silent Spring"が、最初に環境問題を世界に訴えたと言われていますが、その少しまえにドイツのビュンター・シュワフという作家の"Tanz mit der Teufel"というSF小説が出ていました。ヨーロッパの物質文明が悪魔に支配され、破局に陥るという内容です。その中に「大学教授をたぶらかせば三、四十年はオレのものだ。なぜなら、その弟子も言うことを聞くから」という悪魔のセリフがありましたが、それは東大のこれまでの状況にぴったり当てはまると思います。
 それでも、東大には伝統を引きずって教養学部がいまだにあります。一方、東大以外の大学は教養課程をなくすという大失敗をしてしまいました。その後にオウム真理教の事件が起こりまして、教養無き専門家の危うさが浮き彫りになったのです。東大教養学部のみなさんは、非常に幸運です。そのように、自分がどのへんの位置にあるかは承知しておいた方がよいでしょう。


環境教育の歴史

 さて私の4つの柱が環境科学とどのように関係するのかという話ですが。
 日本では1960年代後半から70年代のひどい公害に直面し、心ある先生方が工夫をして公害教育を用意しました。源流は、1964年の三島沼津コンビナート反対運動の成功です。高校の先生が中心になり「自分たちの科学・住民の科学」を提示しました。例えば、コンビナートを作った時に出てくる煙の広がり方を予測するために、五月に鯉のぼりの向きを高校生が調査したことがありました。そして、それを環境アセスメントに利用しました。

 このように学校の可能性が認識され広まっていきましたが、このような公害教育運動は文部省にとっては反体制であり煙たいものだったので、公害教育は体制側からにらまれてずいぶん苦労しました。1968年に、熊本の中学校の本田先生が初めて水俣病を教材に取り上げました。それに対する教育委員会の反応は強烈なものでした。「そのような暗い問題を何故生徒に教えるのか。」といわれた。それに対して本田先生は「明るい公害と言うものがあるのならば教えてください。それを生徒に教えますから。」といって教育委員会を詰まらせたということもありました。そのような圧迫をはねのけて、なんとか公害教育は続いています。

 これに対して、1972年にストックホルムで国連環境会議があり、そこで環境教育の重要性が決議されました。加盟各国は環境教育をやる義務が生じたわけですが、そこで文部省が打ち出したのは公害に触れない環境教育としての自然保護教育でした。それはこれまでの自然保護の流れに乗って多少は展開しましたが、伸び悩みました。73年の石油ショック以降の慢性の不況で、世論は環境より食うほうが先だということになりました。それ以来の約20年間、日本は「環境問題における失われた20年」に突入します。


日本の公害政策

 日本の公害の経験は欧米に比べて約10年早いが、それに対してきちんとした手を打ってこなかった。それは、資本主義国でしかも財界の金をもらって生きている自民党が支配層として続いてきたためだ。日本の政府が伝統的に取ってきた公害対策は次のような政策だった。公害が起こった時、最初は被害者の声を無視する。無視ができなくなると、心配するなという。しかし心配しなくてはならないくらい被害が蓄積すると、最小限の対応をする。そこで東京大学が使われた。例えば水俣病の場合、漁民乱入事件があったあとにわずかの保証金がきた。一方で、東京大学の権威を利用して水俣病は工場排水が原因でないという切り崩しにかかった。そのような経過のくり返しであった。
 従って日本の公害対策は物理学で言うrelaxation(緩和現象)の積み重ねであったと思います。


歴史と責任

 例えば、環境法の勉強は法律の先生を呼んでくればできるでしょう。しかし私は、その背景にある「どのようにしてその法律が歴史の中で発生してきたのか」ということを絶対に忘れてはいけないと思うのです。

 私は、1970年から1971年にかけて公害に関する論文を2年間に800本、他の仕事の合間に読みました。時間がない中であるため斜め読みをするしかありませんでしたが、その中で読むに値する論文には二つの条件があることがわかりました。一つは、公害の歴史について触れていること。二つ目は、科学者の責任について触れていることです。私の経験からは言えば、歴史と責任について書かれていない本は終わりまで読んでみてもあまり得るものがないと思います。ちょうど今は環境問題の第二次ブームであり、皆さんは環境問題を勉強するにあたって多くの本の中からの選択を迫られると思います。
 いわゆる理系分野の論文の大部分は、歴史と責任について触れていません。現実にもそのような例をみることができます。例えば、白金から早稲田に移転した国立予防医学研究所です。この中では伝染病の病原体を扱うため、高度の防護施設が必要になります。しかし、そのような施設が完全に動くとは限らない。従って、そのような危険な施設を街なかに作ってはならないはずなのに、その中にいる研究者で危険だという内部告白をしたのは、600人中一人しかいない。これが現実です。

 科学者と言われる人間が、どれほど自分の利益のために良心を曲げるか。国立大学の教員には身分保障があり研究の自由があるにもかかわらず、水俣病に関する研究をした人は東京大学では私ぐらいです。これは大変なことだと思います。むしろ医学部の教授などは大学からお金をもらって水俣病のもみ消しに荷担をしていた。田宮委員会はチッソとの板挟みの中、水俣病の原因をプランクトンにあるとした報告書を出しました。これは現在残っている唯一の文書です。ぜひ見てみてください。それくらい日本の科学は体制べったりになっているのです。


環境問題の教科書づくり

 皆さんは、そのような国立大学で今から学問を学ぶわけです。そこで皆さんに勧めたいのは、教科書を作ってみたらどうか、というものです。最低限これだけは抑えておかないといけないという客観的な事実があります。水俣病の歴史も客観的な事実です。水俣病もみ消しに東京大学が荷担したこと、また有限の世界での生物の個体数の変化などです。
 日本の「失われた20年」の間に、アメリカではこんな環境問題の教科書を作っていました。様々な事実が図面・写真入りで懇切丁寧に説明されてあります。教科書を作るといっても、最初は薄っぺらいものでしょうし、一人では作れません。しかし皆さんには「何も知らない」という強みがあります。「何を知りたいのか」さえあれば、今の東京にはそれにきちんと答えられる先生がいます。疑問点は、そのような先生に教えてもらえばよいでしょう。
 今出ている環境科学の教科書はテクニカルな内容がほとんどで、現実の公害のことは捨象されています。


銀行型学習と問題解決型学習

 ということで、今の若い皆さんが自分の問題意識で勉強するのが一番よいと思います。それはもう一つ別の経験があるからです。大学までに受けてきた教育は、できるだけ知識を詰め込んで、それを必要な時に取り出すことを目指してきました。端から見ていたパウロ・フレイレという教授は、このような勉強法は銀行型学習だと言っています。それでは使い物にならない。一方彼は、ブラジルのスラムで識字教育をする上で、問題解決型学習というものを編み出しました。それぞれにとって一番大切な問題は何か、そのためにはどうすればよいか、と考えていくものです。スラムでまず出てくる問題は貧困。いくら働いても儲からないのは搾取のため。これは経済を学べばわかる。女性にとっては暴力が一番の問題。それは植民地の歴史を勉強すればわかる。問題解決型学習とは、このような学習です。

 今ではインターネットなどの技術が発達していますが、インターネットを使って情報収集をしていると、人生の半分ぐらいを無駄遣いしてしまったなあと思っています。そのために、我々は世界がどのように成っているのかという世界像を必要とします。つまりは、教養です。歴史や責任については特にそうです。これを私に教えてくれたのは、イバン・イリイチというメキシコの哲学者です。支配者の学問は歴史を必要としない。その場その場を切り抜ければいいからだ。ただし、支配される側の学問は歴史を必要とする。「なぜそうなったのか」ということについて主体として考えなければならないからである。


矛盾点にこそ真実がある

 皆さんが知らないといけないのは、情報の洪水のなかでどの情報が信用できるかを知ることです。公害の因果関係を調べていくと、いろんな情報が出てきます。その中で、一致するものはたいしたことないのです。矛盾した情報こそがおもしろいのです。矛盾している情報について掘り下げていくとそこに真実があります

 水俣病の因果関係を調べていった時に、熊本大学は原因は工場排水の中の水銀だとしたが、東京工大の清浦教授は腐った魚だといった。その根拠は、日本中の各地を調べると水銀の多い場所はたくさんあり、そこで水俣病は発生していないからだ。社会的に混乱を引き起こすからその場所は言えないという。この対立した意見のどちらが正しいのか。清浦先生は化学工業をバックにつけていたが、関係者から聞き出したところ対象地は直江津だった。直江津には水俣と同じアセトアルデヒド工場があったため、清浦教授は場所を伏せたのです。私にとって水俣病の因果関係は、この事実で証明されたと思いました。もう一つは、細川先生の水俣病を発病させたネコ実験です。この二つがあれば、工場排水で水俣病が起こったということは証明されたと思います。それに気がついたのは、矛盾していたからなのです。同様のことが足尾鉱毒事件でもいわれていました。

 矛盾しているような事例についてどちらが正しいのかわからない時は、両方正しいとしたらどうなるのか、一方だけが正しいとしたらどうなるのかという思考実験を試みるとよい。思考実験により真実が見えてくる、いろんなことが分かってくると思います。


「国へ帰れ」

 話があっちこっちに飛び、だいぶ皆さん苦労していると思いますが、結論として言えることは、「分からなくなったら現場に出ろ」と言うことです。そうすればたいがいみえてきます。私の場合は、水俣や栃木でした。東京にいると気が滅入ります。孫の代まで地球は持つのだろうか、などと考えるときりがありません。例えば湯布院や臼杵、風無などの地方に行くと、未来どうなってもここだけは残るだろうという希望を持てます。

 自主講座で学生に勧めたことは「国へ帰れ」ということです。そこで村会議員になれということです。みんな官僚を目指す東大生に本当は言いたかった。私の同期で官僚になった人は、悪いことをしている人が多い。村会議員になれば悪いことはしないだろう、ということです。自主講座は大衆大学の学生が多かったのですが、実際地方で活躍している人がたくさんいます。東大のみなさんも、地元で生き残るような手段を考えてみるとおもしろいのではないか。それは環境問題を考えることとほかなりません。


答えのない問題

 環境は全部つながっている。このアメリカの教科書でも「地球は何故火星と金星の間にあるのか」など宇宙論から始まる。また私が環境科学の講義の最初に学生に見せるのは、パチンコの玉を箱に入れた水分子の模型である。物質の三態や水の特殊な物性を模型で実感してもらう。このように(体内の)内部環境から宇宙まで、環境はつながっているといえる。その中で何かの答えを出そうという時東大生向きでないと思うのは、答えがあるかわからないということです。私達研究者がぶつかっている問題には答えがあるかどうか分かりません。その答えを探すために研究をする。それが無理なら桁を定める。意味のある数値をださねばならない。そのようなことは、これまで答えのある問題ばかりに取り組んできた東大生には向きません。しかし、今からはそのような問題に取り組むことが求められます。

 あと「理屈は物ができる程度にやればよい」ということがいえます。例えば橋を造るにしても、壊れない柱を造るための議論は、色々計算をするが一番最後に安全率を掛けて単純な数値になる。衛生工学では、四則計算しかやったことがないです。土木工学にいた利点は、お金の値打ちがわかることです。兆と言えば大金、億と言えばはした金です。下水道に使われているお金は、先端にいる私から見ると半分は無駄金になっています。今の公共投資はこういうものなのです。


最後に

 一番言いたかったのは、みなさんで日本の環境教科書を作ってみませんかということです。もちろん一朝一夕でできるものではないでしょう。しかし10年程度かければ日本が自慢できるようなものができるのではないでしょうか。そして、それをぜひアジアの発展途上国で生かしてほしい。今アジアは日本が犯した過ちをもう一度犯そうとしています。それを食い止めるのにその教科書が役に立つのではないかと思います。






質疑応答


Question

 東大生の多くは官僚を目指しますが、国家の中から環境問題に関わっていくにあたりアドバイスがあったらください。


Answer

 典型的な例がいくつかあります。一つは、1960年代半ばに厚生省初代の公害課長になった橋本道夫さんです。橋本さんは現場を見に行き、既成の法律はないが被害はあるなら自分の仕事だということで対策を行ってきた。橋本さんの活躍は非常に鮮やかでした。よくクビにならなかったということで、最近聞いてみたら次のようなシンプルな答えが返ってきた。「公務員には身分保障というものがあります。間違ったことをしない限りクビにはなりません。」身分保障は仕事をしない根拠に使う人が多いが、橋本さんは仕事をする根拠にしたということです。その後に続いたのは土木出身の加藤三郎でした。彼がやった仕事で一番身近なのは、合併浄化槽に補助金を付けたことだろう。環境庁ができてすぐの頃から頑張っていました。加藤君は天下りはしないでNGOをつくって、今でも川崎で活動をしています。この二人を追ってこの分野に入ってきたのが、国際局長になった都市工出身の浜中君です。1970年に水俣病の和解プロセスをしようとした時、加害者と被害者が対等にはなりえないということで、私達は厚生省に座り込みをしたのだが、彼は厚生省を批判するビラをまきました。
 そのような立派な人たちもいますので、官僚になることは止めはしません。どういう立場にいてもやることはあります。彼らの場合には、自分がよって立つ技術を持っていました。
 都市工では優秀な人は、住民に一番近い地方自治体に行きます。地方に行けば、その地域での問題に直接、しかも総合的に取り組むことになります。例えば名護市の市長は、非常に難しい判断を迫られていて注目に値します。次のクラスが国家官僚になり、続いてメーカーにゆくという順序になりました。

 経済学者は、時に非常に悪い理論を打ち出す。アメリカの経済学者のサマーズは、「環境の値打ちの安い、人の命の安い途上国に公害を輸出することは経済学的に正しい」といった。すべてを市場経済に基づいて計算する。「被害者が加害者にお金を払うことで、公害対策をしてもらう、ということは計量経済学上等価である」という議論もあった。倫理的には相当悪いことなのだが。ただしそんな中にも、宇沢先生やアマルティア・センのような人もいる。

 水俣病の患者から見れば、東大工学部に私がいたことが信じられないことだった。患者にとっては、東大卒業生が水俣工場を作って水銀を使ったアセトアルデヒドを作り、今度は東大医学部が水俣病を発見し、そして東大医学部がもみ消し、患者の一人として立ち上がった川本輝夫がぶつかったのがチッソの東大卒の職員であり、そこで怪我をさせたといって傷害罪で起訴したのが東大卒の検事であり、裁判官も東大出。川本さんに頼んで自主講座に出てもらい、彼にどうだったかと感想を訪ねたところ、「おれはこういう風に東大と関わりがあって起訴されて公訴棄却になったが、何重にもこの大学の卒業生と関わってきた。東大の門をくぐるときは本当に勇気が要った。」これは僕らのせいではないけれども、ここへ入ってしまった以上、逃げられない一つの烙印みたいなものです。本人としては嫌ですが、自分がどのような位置にいるのか知ることは絶対に必要な作業です。




Question

自分の位置を知れと言うのは、東大の中での自分の位置を知れということですか、それとも社会の中での東大の位置を知れというですか。


Answer

 両方でしょうね。

 私が公害に取り組んだのは、実はあまりいい動機ではありませんでした。日本ゼオン時代、私は工場で水銀を流していました。水俣病の報道を聞き、「自分が流した水銀でそんなえらいことが起こったら大変だ」と思って調べ始めた。ただ現地に入ったらそんな動機は飛んでいってしまい、科学をやって原因を解明する立場としてなんとかせねばと思って動いてきた。

 質問はごもっともですが、東大にいるなかでプラス・マイナスどちらもたくさんあります。その中で私が意識してやってきたことは、自分の生活経験をできるだけプラスに評価することです。中学から高校開拓農民の暮らしをしたことから、肥料を安くと思って化学を志望した。大学に入って経済学を学んで肥料が安くならないことがわかり、農業用ビニールを安くしようと思い日本ゼオンに技術を盗みに入った。三年後に盗む技術は無くなり、大学に戻ってきて水俣病に取り組んだ。よく言われるのが「あなた遠回りしていますね。」ということだ。それは確かに土木工学科ではあまり昇進しないケースだが、助手の立場は教授会に出なくてよいなど自由も多く、思えばいい条件にあったといえる。水俣病の浜本二徳さんは、「水俣病にかかりえらい災難だったけれども、世界中を歩いたし友達もでき、なんかお釣りを余計にもらって人生を得した気がする。」と言っておられた。私も同感である。
 今考えるともう少しできたと思ったのは、東大都市工学科にいた時に学生に対する影響をもっと考えるべきたったことだ。中西準子はそれを相当意識的に行い、成功した。年金生活を経験すると、助手と教授では格段の差であるが、これだけ自由にやったのだから年金が少ないくらいしょうがないかなと思っている。



宇井先生事後質問会
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