環境の世紀VIII  [HOME] > [講義録] >  原田先生事後企画・質問会

HOME
講義録
教官紹介
過去の講義録
掲示板
当サイトについて





原田正純先生事後企画・質問会



5月11日 原田正純


Question

 チッソの労働者も水銀に触れていたと思いますが、水銀は揮発性の物質で、気体として吸い込んだということですか?


Answer

 まず、有機水銀と無機水銀をわけて考えないといけない。どちらも中毒性が強い。どのように摂取したかによって毒性の強さが異なる。無機水銀の場合は、蒸気として吸い込んだら一番毒性が強い。アマゾンの労働者の無機水銀中毒はものすごくひどかった。が、そのような知識は彼らにはない。有機水銀の場合はたちが悪く、どのように摂取しても毒性が発揮されてしまう。



原田正純

Question

 去年の夏に水俣展に行ってきた。チッソに責任を負わすのは簡単だが、同時にチッソは日本経済の発展に多大な影響を与えたと思われる。それについてはどう思うか。水俣はチッソの城下町であり、そこに勤める人と被害者を明確に分けることはできないと思う。


Answer

 それは正しいと思う。チッソは日本自身であり、チッソの歴史は日本の歴史そのものだ。国策工場だからこそ行政は手が出せなかった。厚生省が何とかしようとしたが、通産省の力が強かった。国民としても経済成長のほうを選んでしまった。日本国民としての責任もある。
 また、もともと漁民と市民の間にあった差別が水俣病が発生したことで鮮明化してしまった。漁民と市民、市民の中でも工場で働く人とそうでない人、もとの士族とチッソの資本、など単純に割り切れないいろんな構造があった。市民は「水俣病は貧しい漁民の病気」として、差別する側になった。しかし、水俣病を差別する工場労働者の勤めるチッソ自身が差別の構造で成り立っていた。職員と工員の間にも歴然とした差があった。細川先生はチッソの中ではエリートで、患者にとっては雲の上の人なのだ。
 水俣病に限らず、単純には割り切れない構造がしばしば見られる。




Question

 水俣病問題では、共感が成立していなかったと思う。焼き肉を食べる時に牛を殺す感覚がわからないように、現場で苦しむ人がいる一方、その痛みが制度的に伝わってこない。国は機関であって個人ではない。患者がずっと訴える間に、官僚や社長は何回も入れ替わる。根本的なシステムがおかしい。どうすればよいのでしょうか?


Answer

 想像力の問題はあると思う。名前を変えてくれと言っていた人が「もし自分が水俣病だったら、病名変更運動をどう感じるのだろうか」と考えていれば、事態は変わっていたかもしれない。工場側は工場からしか海を見ていない。少し想像を働かせれば、海から工場を見たらどう見えるか、海では何万人という人が生活していることをわかっていたはずである。その想像力をみんなが大事にしていれば、同じ結果は出ていても各個人の対応は変わっていたと思う。




Question

 水俣病と同じものが何回も形を変えて起こっている。その中で、教育でどのように想像力を伝えていけばよいか。


Answer

 裁判の仕組みが不公平であるのはあなたが指摘したとおり。片方では担当者はどんどん変わる。それはしょうがないことかもしれないが、大きな不公平であることを本人が知っているのかどうかが大事だ。
 また結果が仮に同じであっても、心が癒されるかどうかも大事。大阪高裁の判決を聞いたが、裁判での「裁判が長引いて原告のみなさまに大変迷惑をかけた。お詫びします。」というひと言は、被害者達の心をどれだけ癒したことか。結果だけ言うと必ずしも勝ったとはいえないが。ちょっとでも相手の立場も考えてくれたかで、原告としては結果が同じでも感じ方がずいぶん違う。科学万能・合理主義的な社会の中で、そのような非合理の思いやりこそ大事にしていきたいと思う




Question

 患者の立場に立つ共感と同様に、社長の立場に立つ共感も必要だと思う。水俣病記念講演会で緒方雅人さんが「もしも自分がチッソの社長だったら同じことをしなかったとは言い切れない」と言ったのを聞きショックを受け、また感心した一方で、何が悪くて改善していくべき教訓かがわからなくなってしまった。加害者はいったい誰なのか。チッソの恩恵を被っているのは私たちである。


Answer

 緒方さんは被害者だからそのように言える。僕達が言うと変な感じがする。力関係が明らかに違う時に中立はあり得ない。むしろ、弱い側に立って中立と言える場合もある。公害や薬害のように被害者が加害者になることがあり得ない事件においては、私は被害者の側に立つことが中立だと思う
 加害者は表面的にはチッソ。かといって、チッソ社長が鬼のような人だったかと言うとそうではない。社長も家に帰れば普通の人である。しかし会社の社長となった途端、信じられないようなことをしたりする。そう考えると恐ろしくなる。
 緒方君の発想は被害者の立場だから広い視点で言えることであり、すごいと思っている。彼の家族はめちゃくちゃにやられている。彼の言葉は、地獄の底を見てきたような状況でこそ出てきた言葉だと思う。説得力がある。




Question

 先生がそのように水俣病問題に真剣に取り組めたのは何でなのか?


Answer

 僕も良く分からない。水俣病の研究者はたくさんいる。成り行きもあったが、好奇心が強かったことがひとつあると思う。「何でこの人たちはこのようになっているのだろう」と思ったのがきっかけなのかも知れない。運が良かったからやってこられた。後輩や先輩、患者など、人に恵まれたこともあると思う。大学行けば教授になるのが最終目的だと思う人がいる。私は教授にならなかったのがひとつ良かったのかも知れない。
 僕は、水俣病に関する研究費は国から1銭ももらっていない。よく同情されるが、マイナスだけでなく、もらわないメリットも大きい。まず国から研究費をもらうと、手続きが細かく不自由である。研究費をもらっていないから身軽にすぐに現地に行けることもある。また国と国の関係にこだわらず、自由に研究発表ができるという強みもある。NGOに呼ばれて手弁当で行くと、現地の方は短時間に一番効率のよいようにスケジュールを組んでくれる。また、地元の人たちが案内してくれるため安全である。
 今回、国が裁判が終わったと途端に研究費が大幅に減ったのは露骨だった。




Question

 水俣病の初期の段階でメチル水銀が原因であることを証明したことがあるが、患者を治すことができるのは科学の力だが、それを阻害するのも科学である。科学はあいまいであればよいのか、精密でよいのか迷うところだが。


Question

 科学はあくまでも厳密でもあるべき。1%分からないことがあれば追求すべき。しかし、その1%のわからないことを理由に何もしないのは明らかにおかしい。3つの因果関係があると思われる。(前出の仕出し弁当を例に)

1.対策的な因果関係
仕出し弁当から中毒が出た時点で対策を立てる 販売禁止など
2.法的な因果関係
弁当のメニューの何が原因で、誰が責任をとるか
3.科学的因果関係
(原因が唐揚げだとすると)唐揚げの中のなんという菌か

 3の科学的因果関係は次の予防には役立つが、必ずしも目の前の問題に役立つとは限らない。これを認識して、区別するべきだ。今までは科学的に不明であることを口実にして、「純粋・徹底的科学的」だといって対策を遅らせてしまった
 諫早湾の問題では、対策を立てるための因果関係は明らかだと思われる。しかし科学的な因果関係を明らかにするには2年ぐらいはかかるだろう。因果関係が明らかになるまで、対策を意識的に遅らせているとさえ思われる。目の前にある現実をみて、今何をするべきかという対策を早急に立てるべきだ。
 研究者が慎重になることは間違いではない。ただ因果関係が特定できない場合にも、その研究状況を公表すべきである。新潟水俣病の例を見てみよう。椿博士が「これは水俣病だ」と確信を持ったのは、正式発表の6ヶ月前だった。その時患者の家族が「先生、何でもっと早く言ってくれなかったんだ」と聞くと、椿先生は「実はあのとき迷った。メチル水銀中毒だとは思ったが、三つの可能性(水俣病・水虫の薬・農薬)がある。そのうちどれか証拠がなくわからないから、発表できなかった。」というと患者の家族は、「ではなぜその時、三つ可能性があることを言わなかったのか。三分の一でも魚の可能性があることを知っていたら、元気づけるために患者に魚を食べさせることなどしなかったのに。」というのだ。これは、やはり椿先生は三つの可能性を発表するべきだったと思う。しかし、研究者はしばしば慎重になりがちなので、先取りする役割を行政が果たすべきである。




Question

 専門家とは何か、と言う問いに対して、先生は当事者の問いに答えることができる人が専門家であるとおっしゃいましたが、フィールドに出て行かない研究者がその意味での専門家になるには、どうすればよいのか。


Answer

 僕も考え中。ただ、風通しをよくしておくことが重要であることは言える。専門家の間であたりまえであっても、世間の人にとってみれば非常識な場合もたくさんあるため、風通しを良くしておくことは重要。
 僕は、水俣病の患者とは「患者(治療を受ける側)」と「医者(治療をする側)」との関係で付き合っては来なかった。一緒に酒を飲み、語り、1対1の人間として付き合ってきた。だから、僕に対して患者は何でも言ってくれる関係ができた。対等な立場で対話してこられたのです。そこでは、専門家では思いつかない、患者の素人としての発想が重要なヒントを与えてくれるのである。例えば、脳梗塞の患者に水俣病と類似の症状が出たとき、医者は脳梗塞としてしか考えないが、あるとき川本君が「脳梗塞の人が魚を食ったらどうなるとですか」と言ってくれた。ここではじめて「ちょっと待て、調べてみよう」という風に気づかされるのです。そして、この脳梗塞の患者は水俣病だとわかりました。このような例を、実にたくさん経験してきました。



事後企画の様子
事後企画の様子

Question

 緊急性を持った事態に際して、いかに専門家としての発言を行えばよいのか。


Answer

 僕はこれまで、様々な裁判に立ってきたが、向こうは徹底的に攻めてくる。これに対抗するためにどうすればよいか、という目を鍛えることが必要だと考える。すなわち、何が根拠で、何が言えて、どこからが推定なのか、ということを明確にしておく必要があるのである。例えば、「ある学者の説」ではなく「〇〇大学の〇〇教授の説」という風に具体的に、かつ慎重に述べていくべきだ。裁判で鍛えられた後に論文を読んでみると、研究とは穴だらけだ。一番悪意を持った人に反対されない、またその反対に答えられるように、自己点検を心がけている。




Question

 水俣病事件など公害問題を環境問題の教訓としてとらえるためには、どのような考えがあるか。


Answer

 水俣病事件はものすごく多面的に捉えられるため、一口に「〇〇が教訓だ」とは言えない。水俣病事件は過去の、すでにケリのついた問題ではなく、今後も多面的に研究がなされ新たな視点が得られていくであろう。足尾銅山鉱毒事件などは、そのよい例である。100年たった今でも、続々と新たな研究が発表されている。
 また医学が出てくるときには、もう手遅れのときである。水俣病のように患者の側からの救済の声があがった場合、その時点ではもう相当ひどい状況になっている。手遅れになってしまった経験から、どのような教訓を得るかは難しい。
 公害問題と環境問題との共通点に関しては、こう考える。地球規模の話をすることも勿論大事だが、具体的にそこにある状況をどうするかを考えずして、問題は解決しないだろう。そうかといって、目の前の公害問題に視野を限っても問題は解決しない。そのバランスをどうとるかが、知恵の出しどころである




Question

 審議会などの座長を業績のある研究者ばかりが務めて、実際に現場を良く知る研究者が座長につかない。というケースは公害問題に限らず、教育問題でも同じで、他にも同様の構造が日本に存在している。


Answer

 その問題は、本当に深刻である。資料もその場でしか見ないような、やたらと忙しがって片手間で研究会に出ている専門家が多い。責任感の欠如した専門家が座長を務めていては、問題は解決していかない。座長が「僕はよく知らないが、ただ呼ばれたからやっている」という状況は、なんとかしなければならない。すべての座長がそうではないが、そういう場合が多い。リーダーを民主的に選ぶか、あるいは議論を公開し市民が監視するかによって、この状況を改善していかなければならない。




Question

 宇井先生の存在はどう考えられていますか。


Answer

 1960年ごろ、僕が水俣をうろうろしていたとき、僕のことをそーっと見ている女性がいた。保健婦かなと思ったが、今考えるとこの女性は石牟礼道子さんだった。僕とよく入れ違いになっていると聞いた若い写真家は、あとで考えたら桑原史成さんだった。また、資料をいろいろあさっている学生がいた。どうも、それが宇井さんだったらしい。この頃1人1人みんなバラバラに「大変な事件だ」という問題意識にもとづき、水俣にやってきていたのである。
宇井さんと知り合ってからは、ずいぶん多くのことを教えてもらった。例えば僕がよく言っている、「公害の根本にあるのは差別だ」「公害の研究は旅だ」ということを最初に言い出したのは宇井さんだと思う。
また、1970年ごろ、宇井さんが「ストックホルムに乗り込もうよ」といってやってきた。僕は英語が話せないし、嫌だと言った。僕みたいな田舎者からは「ストックホルム(注:1972年 国連人間環境会議)」という発想は絶対に出てこない。宇井さんは、僕にはない発想を豊かに持っている人。第2水俣病が起こったときにも、彼はすっ飛んでいった。嗅覚、発想がかなり優れているのだ。
喧嘩をしたこともあったし、スッチャカメッチャカやりながら、ともにやってきた。自分にとって宇井さんの影響はとても大きい。




Question

 現代の東大生にメッセージを下さい。また、先生のような大先輩の研究者と学生が、うまく協力することはできないか。例えば雑誌の原稿校正の作業などを、時間のある学生にやらせてみてはいかがでしょうか。


Answer

 1970年代とか1980年代に自主検診をしていたときに、学生をたくさん使った。「たけのこ塾」を作り、素人や学生を集めて皆で勉強した。学生や地域の青年を教育しようとすると、面白がってやってくる。この人たちの力で、自主検診を何千人単位でやり遂げてきた。その時にどこにでもついてきていた学生が、今では保健所の所長になっていたり、医者になっていたり活躍をしている。
ただし行動をともにすることが大事であって、言葉だけでは学生はついてこない。参加しやすいプログラムを考えなければならない。




Question

 「患者のために」「汚染をなくすために」などを考えながらとはいえ、やはり自然科学的に純粋な真理を探究しつづける研究者の姿勢は、崩れないと考えていますが・・・。


Answer

 ある1つの結論に達してもまた新たなドアにぶつかるのが、科学だといえる。それは個人の趣味として行っている分にはよいが、科学的な研究はしばしば社会的に影響を及ぼす場合がある。それを認識していないと、そのようなドアを探しつづける態度が権力者や行政に利用されることになる。



今日は僕もすごく勉強になりました。
水俣に来たときは声をかけてください。

go top